「同労者」第72号(2005年10月)                          目次に戻る 

論  説

 − 働き手のために祈ろう 

「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思わ
れた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主
に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」(マタイ9:36〜38)


 稲の作柄や、果実など様々な農産物の収穫が報じられています。また一方では、台風による
風の被害、洪水の被害によって、期待した収穫が得られなくなったといったことも聞こえてきま
す。
 クリスマスの季節には、主のご降誕を思い、受難週とイースターに主のご受難と復活の意義
を考えます。春には種まきを考え、秋には収穫を考える、ということは自然であって、毎年の繰
り返しであっても、それぞれの季節に相応しいことでしょう。
 イエスがご覧になった群衆は、彼の業や説教のうわさを聞いて彼のもとに集まってきた人々
であったことでしょう。彼らをご覧になって、イエスは羊飼いのいない羊たちのように思われまし
た。そして感じられたことは、収穫が多いのに働き手が足りないということでした。福音の畑は
広大で、実りの季節を迎えているのに、収穫せずにうち捨てられていると。
 今、世の人々はなんと飢え乾いていることでしょう。報道の技術が向上し世界中の情報が即
時に届けられるようになりましたが、そこに表されているのは、羊飼いのいない羊の姿であると
思います。若い人々の中から、献身し、福音の直接の働き手となる人々が起こされることが願
わしめられます。働き手が起こされるよう祈りましょう。それは主のご命令であって、主が喜ば
れることです。しかし、私たちの大部分は今いるところにとどまって、これらの働き手の「同労
者」であることを、神がよしとされていることは疑いありません。
 同時にまた、子供たちのように私たちが神から委ねられているものたちがいます。そのため
に働くことは、異国に宣教にゆくことと同様福音の畑の大切な働きなのです。そのための働き
手も必要です。私たちにとって、神が召された働き以上に大切なことはありません。私たちはも
ちろん自分でしなければならないことがあります。しかし自分でできないこともあります。そのた
めの働き手を必要としている場合がなんと多いことでしょう。そんなとき、上の主のみことば
は、私たちにとってなんとありがたいことでしょう。働き手を祈り求めることが主のみ心なのです
から。
 愛する者のために神が働き手を起こされますように。そしてその方に愛する者を委ねること
がなされなければなりません。
 一方、私たちが誰かのための働き人になれる場合もあります。それは私たちが、神の召しに
お応えする大切な時です。心を尽くしてそれをなしましょう。

  

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