「同労者」第73号(2005年11月)                           目次に戻る

読者の広場(3)

<お便り>

中京聖泉教会 山田 義

− エストニヤを歩く(2) −

 食事は不平を言うのではありませんが、日本の食事と比べると質素でした。ヨーグルトのソー
スで新鮮な野菜をいただきました。庭にある温室の小さな家庭菜園でキューリやトマトが採れ
ます。赤い魚の切り身を焼き、肉を食べました。娘夫妻も来て一緒に食べました。ある日、シマ
子は持って来た袋入りの生うどんを「焼きうどん」にして出しました。簡単なすしも日本の米を炊
いて割り箸でふるまいました。のりや納豆やあんこも持ってくれば良かったのにと残念に思い
ました。
 離れに小屋があってシャワー室、その向こうに薪(たきぎ)が高く積んであります。小屋の中
には薪を切るるための大きな丸鋸台(まるのこだい)があります。古材を手に入れて電気でガ
ーとやって切るためです。主人のボリスは足が不自由ですからそういう仕事はしません、冬に
なる 
前の奥さんの仕事だそうです。マイナス20度、30度の真冬をいかに暖をとって寒さから身を
守るか生き延びるかという戦いです。
 斧があったのでほんの少しですが薪割りを楽しみました。エストニアまで来て何で薪割りをす
るのかと思う人がいるかもしれませんが、この家では素直に仕事をしたいという気持ちになりま
す。子供のころ薪割りをして風呂を炊いた私には懐かしく楽しい仕事でした。庭の枯れ木を集
めたり部屋を掃除したり、ふだん家でもあまりしないことができました。
 サウナでは、薪を何本か入れて火をつけておくとその上の石が暖まって小屋全体が長時間
暖かいのです。日本で入る健康ランドの温泉施設にある立派な電気やガスのサウナではあり
ません。薄暗い手作りの小屋の中の鉄のカマドです。7月末でしたがシャワーをするにもサウ
ナが暖まっているとほっとするほどの気温です。
 暑い名古屋から急に涼しい天候の国に来て、寒くて風邪を引きました。シマ子のセキがひどく
て気の毒でした。リディアさんは知り合いのエスペラントを話す女医さんに電話をかけわざわざ
薬を持って来てもらいました。薬を飲み、次の日には診療所へ行きました。町の診療所の女医
さんにはリディアさんの通訳が必要でした。処方箋を書いてもらいアポテコ薬局へ行き薬とのど
飴を買いました。処方箋のメモや薬局の領収書が後で海外旅行保険の請求に役立ちました。
 それからは、なるべく暖かい飲み物を飲み、サウナも上手に使い、布団も増やし、長袖を持
ち歩くようにしました。
 娘のドーラさんを紹介します。息子の中学生が2人います。ハープサルから200キロメートル
くらい南にドーラさんの主人の実家がある。姑さんと自分の母リディアさんとは仲がいい、という
よりかなり親しい関係です。だからこそ日本からの初めての私たちを連れて行くことができたの
です。ほこりだらけのエストニアの森の中の道を車は走りました。エンジン不調の車でしたが途
中観光地に寄りながら娘の夫の家に着きました。あたりいったいは実家の土地だという。森の
なかにある小さな集落。犬が2頭いました。家も広いが質素な家です。農家の雰囲気。シャワ
ーではお湯はちょろちょろとしかでないので体を拭くだけにしました。弟息子の使っていた部屋
で私たちふたりがとまりました。(その弟息子の名前がなんとクリストといいます。)リディアさん
はそのドアの廊下に置いてあるベッドで寝ます。カーテンがあったかどうかは覚えていません。
姑さんは木材会社の事務をやっているという人。そこにエスペラントの辞書や教科書が置いて
あるのを見ました。そのお母さんもなんとリディアさんの影響でエスペラントをかじったことがあ
るらしい。自分からは話さないが私たちの話は理解できて会話は弾みました。
 二人の少年は夜カードの遊びを見せてくれ説明してくるのです。どんな遊びかは分からない
のですが、日本から来たカードだといいます、ポケモンらしい。「ポケットモンスターか」というと、
ああそうだという。数年前日本の少年たちが盛んに遊んでいたカード。英語で説明する少年た
ちにふたりのおばあさんたちは目を細めています。
 夕食は始まりも終わりもない。ドラの息子たちはお母さんより背が高い。その少年がお母さん
の膝の上に座っているのをみて驚きました。ちょっと待った、カバンからカメラを持って来るか
ら。その弟も座ったところを撮しました。日本では7歳にもなってお母さんの膝に座ると笑われ
ます。しかかられます。他人の前では特に。 日曜日の礼拝は朝10時に行きました。教会へ
行きたいからとメールで書いておいたからです。私たちは毎週行っているのでと書くと、「私た
ちは年に何回か、ことのあるときに行くだけです。めったに教会には行かない」という返事でし
た。歩いて行ける距離に古い城がありそこにある大きな石の教会です。石造りのひんやりとし
た、天井の高い大きな会堂ですが、まだ飾も聖画もなく、目立つものは新しい据え置きのパイ
プオルガンです。ソ連崩壊のあとヨーロッパからの寄付でドイツ製のオルガンが入ったのだそ
うです。日本のようにエレクトーンのような電子オルガンですますことは14世紀の会堂には似
合わないようです。
 受付で賛美歌を借り、意味は分かりませんがローマ字綴りのエストニア語で歌いました。会
堂の壁に大きな字で数行の数字板が見えます。それが今日歌う賛美歌番号であることが分か
りました。説教台がある、中心にはテーブルもある。昔はカトリックだったようだが、今はバプテ
スト派が管理してプロテスタントの礼拝が行われています。ですからマリア像はありません。聖
餐式が重んじられた礼拝式でした。女性の一人が聖書朗読台に立ち読み、左端にある説教台
で牧師の説教が短くなされます。聖餐式にかかる時間は長く、指示で互いに握手や挨拶をして
から前の祭壇に向かいひざまずいてパンとワインをいただきます。集会が全部終わると受付
にいた女性が、私たちがエスペラントを話す人だと知ってシマ子にエスペラントで話しかけてき
ました。「私も以前はエスペラントを習ったが最近は単語も忘れてしまったが…」ときれいな発
音で話してくれました。人々が出たあと、会堂の大きなドアはかんぬきで閉められてしまい、祭
壇の裏を回るように言われ、二人の男性がが大きなテーブルに献金を広げて数えているのを
横目で見ながら事務室のドアから外に出ました。昼近くの太陽に目がくらみました。
 首都のタリンは13世紀ころからの古い町で、立派な尖塔を持つ教会がたくさんあります。観
光客として大きな教会のそばを通ると「オルガンコンサート」と書いてあります。ちょうど4時から
のコンサートでした。入場券を買って静かに入っていくと、会衆席は祭壇を背にした様で並べて
あります。長いすを並べ直したのではなく背もたれが前後に設定できるのです。席に座ると高
いところに位置するパイプオルガンの演奏を見上げることができます。バッハのフーガその他
3曲が演奏されました。 

礼拝後リディアさんと教会のある城壁前


ハープサルのオルガン


パイプオルガンのすばらしさを語っていた兄や父を思い出しながら聴きました。バッハもすばら
しい。後で聞いたのですがこの教会のオルガンはヨーロッパでも有名なのでそうです。いい音
のオルガンでした。音楽を聴いて涙を流したのはひさしぶりのことです。感謝と喜びでいっぱい
でした。
 教会には歴史があることを見せられます。ソビエト時代には会堂は荒れており、倉庫だったり
スポーツセンターだったりしていたという話を聞きます。その後教会としてとりなおし、修復作業
をしている教会を多く見ました。煉瓦の壁の上に梁を渡して屋根を作っていました。まだパイプ
が入っていないパイプオルガンのケースだけという教会もありました。歴史を見ると13世紀ご
ろからキリスト教が入って来て、カトリックの強いところでのようですが、ビリニュスではプロテス
タントの教会は通りからは奥まったところにありました。ここが入り口かと迷うようなところでし
た。くぐると中には立派な会堂がある。歴史の中を通り抜けたようです。キリスト教会2000年
の歴史の中にめんめんと生きていることを思いました。日本の歴史や世界の歴史の上に聖書
の神はどう働いているかを思わされます。十字架こそ歴史上の最大のニュースであり、いまな
お会堂の中の油絵を聖画や聖像をもってそのニュースを伝え続けているようです。今の私たち
に十字架と復活ということがらを歴史上の事実としてどう受け留めるのかが問われています。
どの教会にもパッションの物語が聖画としてリアリティに描かれおり見る者に迫ってきます。
 昔からの会堂で白い僧服を着た3人の牧師たちが式を淡々とこなしているのを見ると、生の
福音に生きる必要を感じます。人々がそれを求めているようにも思われます。儀式だけの礼拝
ではなく力強く聖書による福音が語られるためにこそソビエト時代とその崩壊という歴史的事
実があったに違いないと思うのです。
 ヨーロッパのある地域では教会を維持できなくなり売りに出しているという話を聞いたことが
あります。ソビエトから独立した国では、教会が修復され立派になればその地域の観光の資源
にもなると推測できます。しかし、観光のための教会で終わらず、中身が福音に満たされた教
会となってほしいと思います。
杯はあふれ、恵みに満ち、祝された旅行でした。
(完)
 



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