「同労者」第73号(2005年11月)                         目次に戻る

巻頭言
− みことばへの情熱 − 
仙台聖泉キリスト教会  野澤 睦雄


「私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。どう
か、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようにな
さいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」(詩編
119:48〜50)
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いので
す。・・あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。・・みことばの戸が開くと、光
が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩編119:103、105、130)


 私は、1962年5月12日の夕方救いの恵みに与りました。救われたときに私に与えられたも
のは、罪を赦された安心と聖書に対する情熱でした。
 私はクリスチャンホームに育ち、神がおられること、聖書は誤りなき神のことばであること、イ
エス・キリストが救い主であることを、物心ついたときから疑ったことがなく、そう信じ続けて現
在に至っています。私は救いの恵みに与る前にも聖書を全部読もうと挑戦したことがありまし
たが、終わりまで読むことができませんでした。
 救われた後、私は聖書を読みたい思いに駆られました。聖書は隅から隅まで面白く、こう言う
ことが書いてあったと心にとまるところに色鉛筆で線を引いて印をつけましたら、聖書全体が真
っ赤になりました。何冊もの色つきの聖書ができました。普通の聖書は白黒聖書、私の聖書は
カラー聖書といった感じでした。
 はじめは一年に何度も読んだのですが、やがて聖書通読表に従って、一年に一回聖書全体
を読むようになりました。以来現在まで一年に一回通読を続けています。
 なぜ私は聖書を読み続けたのだろうかと考えてみますと、それは聖書を読んで何かを得よう
というような目的が先にあったのではなく、みことばへの情熱が失せなかったからとしか言いよ
うがありません。
 しかし、結果がついてきました。私に必要となったその時その時の状況に応じて、聖書は、神
はどういうお方であるか、神はどういうことを教えておられるか、というようなことの理解を与え
てくれました。また神が私に語ってくださることがありますが、聖書はそのいとぐちになりまし
た。
 聖書を読み続けるためには、読む時を確保する工夫が必要でした。仕事や家庭やそこで起
きてくる様々の出来事によって、一日の生活のパターンが次々と変わってきますが、自分の一
日の生活の中のどこかに「習慣化した聖書を読む時間」を組み入れることが、聖書を読み続け
るための必須の要件であると思っています。
 



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