「同労者」第73号(2005年11月)
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今回は「残像」という作品をご紹介しようと思います。
まずこの作品は、「氷点」「積木の箱」「裁きの家」に引き続いて現代家庭の問題を鋭く指摘し
た書と言えます。
いわゆる事なかれ主義で、自分の立場と世間体を大事にする父親、何事にも無感動で、人
生に退屈を覚えている母親、そしてただただ金と女を追い求める兄息子、無口で人に気兼ね させる弟息子、このような構成メンバーの家庭を中心に展開するストーリーは、まるで典型的 な現代家庭の悲惨な実状を暴露しているかのようです。
そんな中で三浦綾子氏はいつものように罪の問題を明らかにしていきます。「人間はすべ
て、罪を犯す可能性を多分に 持って生きている存在だよ」そして、そんな人間の中でも本当 に悪い人間が栄えている現実を語りつつ、そのような者に何の罰も下されないことが、実は最 も恐るべき罰だということを示しています。「いつか誰かの本に書いてあったんだがね。罰があ たらないで、人間したいままに悪いことをしている状態が、最も恐ろしい罰だろうとね」
「ふーん。なるほどね。それ、わかる気がするわ。何事も起らず、悪をつづけていられるという
ことの不気味さね、確かに不気味だわ。」ここでは悪人への神の正しい裁きがすでに行われて いることが暗示されているのです。
そして、三浦綾子氏はこの作品の中で人生についての重要な問いかけを私達に投げかけて
います。
「人生は、いいことも悪いこともあるんだからね。明日に何が待っているかを、一喜一憂すると
いうのでは、地に足をついた生き方は、できないことになると思うよ。・・・問題は、何が起きる かということに重点を置くのではなくてね。何が起きようと、とにかく、いかに生きるかという、生 きる姿勢に重点を置くべきじゃないのかな。」「家庭は憩いの場所である筈だった。が、洋吉に とって、家庭はいとうべきところとなった。腹立たしく不愉快なところであった。いったい、人間は どこに身を置けば、安らぎを与えられるのであろう。」
「(神はあるはずだ)市次郎はそうも思うことがある。そして、そう思うことによって、ほっと安心
することがある。もし、この世の最高の知恵ある者が、自分たち人間であったとしたら、何と心 もとないことかと市次郎は思う。この地上で、最も偉いものがこの過ちに満ちた人間だとした ら、何と頼りなく侘しいものであろう、と市次郎は思う。」
特に最後の問いかけは最も重要なものだと言えます。地に足をついた生き方、そして本当の
安らぎを得る生き方は、まさにこの「神」との出会いからもたらされることを三浦綾子氏は最も 伝えたいのですから。 ![]() |