「同労者」第73号(2005年11月)                          目次に戻る 

論  説

 − 信仰のプレーヤーになろう 

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでい
ます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスに
おいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。で
すから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」(ピリピ3:13〜15)
「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍
耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)


 評論家という人々がいます。政治評論家、軍事評論家、経済評論家、映画、音楽、芸術、野
球、サッカー、ゴルフ、相撲といったそれぞれのスポーツ、食物、などなどの評論家といった
人々が、マスコミに登場し、聞く人々を"うならせる"ことを語ります。
 この世のことについては、評論家はもてはやされますし、決して悪いことではないでしょう。し
かし信仰の世界では、評論家は嫌われます。
 評論家に対して、ことばの上での誤解があるかも知れませんが、信仰について評論家という
と、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがた
に言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは
言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2〜3)というイメージがついてまわるからで
す。
 私たちは自らの学びと訓練のために、隣人を正しく評価することが必要です。それはよい面
についても、悪い面についても、同様です。しかし、往々にして起こること、すなわちだれしもが
陥りやすいことは、隣人を論評するけれども、それだけ終わってしまうことです。それはうわさ
話をすることと変わりません。「ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話しては
いけないことまで話します。」(テモテT5:13)といったことは、パウロが、そういうことを教会の中で
させないようにとテモテに命令したことです。
 何をするにしても、下手で始まります。信仰の道も同様です。教会の門をくぐったとたんに信
仰の達人ということはあり得ません。先生や先を歩んだ兄弟姉妹に教えられ、周りをみて学
び、それを積み重ねてゆくうちに、神が成長させてくださって、やがて少しは様(さま)になった
信仰者にしていただけるのです。自分でプレーしない人は、いつまでも同じ所にとどまっている
ことになります。(ヘブル5:12)
 本誌「同労者」を学びの材料に、みな評論家ではなくプレーヤーであることを努めようではあ
りませんか。

  

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