「同労者」第74号(2005年12月)                          目次に戻る 

三浦綾子を読む
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− 死の彼方までも −
東京ミレニアム・チャーチ 牧師  長谷川 与志充
 
 今回は「死の彼方までも」(1973年発行)をご紹介しようと思います。この作品は表題作を含
めた中短編集になっていますが、これは以前にご紹介した「病めるときも」(1969年発行)に
続くものです。
 今回は表題作についてのみ触れておきたいと思いますが、文庫本の解説を見るとこの書は
「小説宝石」に掲載されたものであることがわかります。「小説宝石」は推理小説を掲載する雑
誌であることから、三浦綾子氏は推理小説的な技法を用いて「人間存在の謎解き」に迫ってい
ます。ちなみに、「死の彼方までも」(69年10月号)以前に「小説宝石」に掲載されている作品
は「どす黝き流れの中より」(68年11月号)と「奈落の声」(69年4月号)ですが、これらは両方
とも「病めるときも」の中に収録されており、実に深く、重々しく、ドラマチックな作品です。推理
小説好きな読者であれば誰でも、これらの作品に大いに引き付けられたことでしょう。
 さて「死の彼方までも」ですが、この作品は三浦綾子氏が処女作「氷点」以来語り続けていた
人間の「罪」というものを、また新たな形で私達に示してくれるものです。
 まずは、表題のように「死の彼方までも」人を偽り、あざ笑う利加という人物を通して私達は人
間の罪深さを思い知らされます。利加は癌で死んでしまうのですが、その死の床でさえ正直な
人間になることができず、死の彼方までも人に復讐することを考え、そのための必要な手段を
講じようとする恐ろしい女性なのです。しかし、実は私達も程度の差こそあれ皆等しく死ぬべき
存在であり、本当はそれ故に正直で心優しい人間になるべき存在であるにもかかわらず、この
利加のように「なんと底知れなく人間は悪いものであろう」と関係する人々から評されずにはい
られない罪深い存在なのです。
 そしてもう一人、この利加によって傷付けられる主人公の順子を通しても、私達は人間の罪
深さを思い知らされます。彼女は「次々に現われるものに、・・・なんと意気地なく引き回されて
生きていることだろう。こんなふうに、目の前のことにかき回されて、自分の人生は終わるのだ
ろうか。」と自らの人生を省みていますが、最後には「利己心ゆえに人を信じ、利己心ゆえに人
を疑い、利己心ゆえに人を憎んだ」と自らを評し、自らの存在を憎んでいます。
 人を揺さぶる人も、人に揺さぶられる人も等しく罪人であり、どちらも罪の赦しが必要である
ことを三浦綾子氏はこの作品で語っているのですが、この書の最後には推理小説的な重要な
謎が隠されています。それは主人公が最後に傍らに立ちどまり、しゃがみこむ「深紅のあおい
の花」です。自らを憎んだ主人公が傍らにしゃがみこむこの花は、私達の罪を赦すための「イ
エス・キリストの十字架」を象徴しているのです。


 
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