「同労者」第74号(2005年12月)                          目次に戻る 

論  説

 − クリスチャンのクリスマス 

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの
身になりますように。』」(ルカ1:38)
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、・・た。」(マタイ
1:24)

 12月といえばクリスマス、しかしクリスマスはクリスチャンでない人々に乗っ取られた感じがし
てしまう今の世の中です。若い人々は恋人とどういうクリスマスを過ごそうか、家庭持ちの人々
は家庭でどういうふうにしようか、商売をする人々はクリスマスセールといった具合です。
 キリストに救われた者たちは、何を思いどのように過ごすべきでしょうか。冒頭に掲げたみこ
とばを読むとき、筆者の心に通うものは、「献身」ということばです。マリヤは主のおいでのため
に献身しました。ヨセフもまたその通りです。
 「献身」ということばは、キリスト教の世界では、まず牧師、伝道者、宣教師など教会の直接
の働き人になることの意味に使用しています。この世の富、権力、名誉、快楽、などなど、一般
の人々が得るであろうこの世の人々が求めるものを放棄して、神のご指示に従って生きること
がその中に含まれています。マリヤとヨセフは今の世でいうなら、直接献身したのではありませ
んでした。しかし彼らは確かに、神の御手に自らを委ね献身をしたのです。彼らは、直接この
世にキリストが来られるために働き、それは神のためにしているということが、彼ら自身にも明
確に分かるものでした。
 私たちの時代ではもうそのようなことはありません。私たちがキリストのために献身を決意す
るとき、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたの
は、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)と主がいわれる小さい者に献身することになります。
 その小さい者は伴侶を求めている青年や娘さんかも知れません。病にいる人かも知れませ
ん。様々な困難を抱えている人かも知れません。目立たない小さな働きかも知れません。摂理
によって導かれ、そのような人のために生きることに自分を渡していくこと、それが今の私たち
の献身です。
「ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の
真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかった
からです。』」(ルツ3:10)このボアズのことばよって、ルツはまだ若く、ボアズが年配者であったこ
とが分かります。ルツが望んだなら若い人のところに嫁ぐことができたのでしょう。ナオミのた
めにルツは献身をしたのです。
 クリスマスにあたり、東の博士たちが黄金、乳香、没薬を献げたように、私たちも己を利する
ために生きるのではなく、福音に相応しい献身の道をゆく決意をイエスに献げようではありま
せんか。
  

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