「同労者」第75号(2006年1月)                            目次に戻る 

一度は原書を読みたい本
 − キリスト者の完全  (29) −

  「その日、・・罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ書13:1)

 この学びを掲載している理由を、第一回目の冒頭に記載していましたが、時間も経ち途中か
ら読まれている方々もおられると思いますのでもう一度掲載しておきます。

潔められて善い実を結ぶこと、これが私たちキリスト者の人生最大のテーマです。
 ジョン・ウェスレーはその著書、「キリスト者の完全」の中でこう指摘しています。「私たちは、
肉体にある限り、完全な知識を持つことはない。だから判断を誤ることがある。判断を誤れば
実行行為も誤ることがある。」と。しかし、例えそれがほんの一部に過ぎなくても、正しい善い知
識を身につけるか否かは、私たちが潔められて善い実を結ぶことができるか否かを左右する
重大な問題です。私たちは学ぶことによって、多くの正しい知識を獲得できます。
 私が大学生3年生であった時、雑誌会という名前の授業がありました。それは指導教官から
英語の論文を渡され、それを著者になり代わって全員の前で発表し、質問に受け答えするとい
うものでした。それで辞書を引き引き一生懸命読み、内容を理解し、発表のための図やグラフ
を準備しました。この学課によって、その与えられた研究分野の知識について多大の恩恵を受
けたことが後になって分かった次第です。私たちがキリスト教の教えについて学ぶ時にも、そ
の方法はこの世の学問の学びと共通している面が多くあります。
 神が潔めをジョン・ウェスレーに託されたことは論を待ちません。ですから私たちが潔めにつ
いて学びたいと考えるとき、まずウェスレーの教えていることを学んでみるのがよいのではない
でしょうか。仙台聖泉キリスト教会の教会学校成人科クラスでテキストとして読みたい本の希望
を取りましたら、その中の一冊に「キリスト者の完全」がありました。そして潔めへの飢え渇きと
その正しい知識の求めを感じました。
 本誌にそれを取り上げたいと思い、先に述べた雑誌会にならって、これを原書で挑戦したい
と考えた次第です。私は典型的な日本の英語教育の申し子というような者であって、辞書を引
きながら読むだけの英語なので、正確な翻訳は困難なのですが、たたき台として訳文を一緒
に掲載します。誤訳、より良い表現などに気づかれた方はぜひ、筆者宛てお知らせください。
内容についてのご質問があれば、雑誌会のように著者になり代わってお答えしたいと思いま
す。なお、理解できないことが起きた場合には、皆で議論し、結論は先生方に教えていただこう
と思います。・・

(訳文はたたき台です。気づいた誤訳やよりよい表現がありましたら、お知らせ下さい。
                  ・・ 編集委員)


19.
At the Conference in the year 1759, perceiving some danger that a diversity of sentiments 
should insensibly steal in among us, we again largely considered this doctrine; and soon after 
I published Thoughts on Christian Perfection, prefaced with the following advertisement: 
 1759年の会合時に、私たちの間に様々な意見が気づかないうちに入り込んでいる危険性
を認め、私たちはこの教義を再度大いに考察した。そしてその後すぐに私は以下の見出しを
つけて「キリスト者の完全に関する考察」を出版した。

"The following tract is by no means designed to gratify the curiosity of any man.
 以下の小冊子はいかなる人々の好奇心をも満足させることを意図したものではない。

It is not intended to prove the doctrine at large, in opposition to those who explode and 
ridicule it; no, nor to answer the numerous objections against it, which may be raised even 
by serious men.
それを論破しようとしたりあざ笑ったりする人々に対抗して、この教義を証明しようと意図したも
のでもなく、またそれに対してまじめな人々から提起される数多くの異論に答えるためでもな
い。

All I intend here is, simply to declare what are my sentiments on this head; what Christian 
perfection does, according to my apprehension, include, and what it does not; and to add a 
few practical observations and directions relative to the subject.
ここに私が意図しているすべては、単純にキリスト者の完全についての私の考えが何である
か、私が理解しているところに従って、それが何を含んでいるか、またそれが何でないか、そし
てこの問題に関する二三の実践的な概観と方向性とを付け加えて示すことである。


 "As these thoughts were at first thrown together by way of question and answer, I let 
them continue in the same form.
 これらの思想は、当初から問答という方法で提示されたので、私は同じ形式を続けることにし
た。

They are just the same that I have entertained for above twenty years.
それらはこの20年間私が維持してきた見解と全く同じである。

"QUESTION.
What is Christian perfection?
質問。
キリスト者の完全とは何であるか?

"ANSWER.
The loving God with all our heart, mind, soul, and strength.
回答。
私たちの心、精神、魂、力のすべてをもって神を愛することである。

This implies, that no wrong temper, none contrary to love, remains in the soul; and that all 
the thoughts, words, and actions, are governed by pure love.
これには、魂のうちに残る悪い気質がないこと、愛に反するものがないこと、そして考えも、こと
ばも、行いも清い愛が支配していることを含む。

"Q. Do you affirm, that this perfection excludes all infirmities, ignorance, and mistake?
質。あなたは、この完全がすべての弱点、無知、過誤から逃れさせるものであることを主張し
ているのか?

"A.I continually affirm quite the contrary, and always have done so.
回。私はずっと全く反対のことを主張し、そうではないと述べてきた。

"Q. But how can every thought, word, and work, be governed by pure love, and the man be 
subject at the same time to ignorance and mistake?
質。しかし、考えも、ことばも、行いも純粋な愛が支配したなら、人は同時に無知や過ちを犯す
ことできるものであろうか?

"A.I see no contradiction here: `A man may be filled with pure love, and still be liable to 
mistake.' 
回。私は「人が清い愛に満たされていながら、なお過ちに陥りやすいことがありうる。」というこ
とに何の矛盾も見出さない。

Indeed I do not expect to be freed from actual mistakes, till this mortal puts on immortality.
事実、私はこの死ぬべき体が不死を着せられるまで実際上の過ちから解放されることを期待
していない。

I believe this to be a natural consequence of the soul's dwelling in flesh and blood.
私はそれが、魂が肉と血に宿っている間の当然の帰結であると信じている。

For we cannot now think at all, but by the mediation of those bodily organs which have 
suffered equally with the rest of our frame.
なぜなら私たちの体に休みが必要であることと同様に、弱さを持つこれらの身体の器官の仲
立ちによる以外には、今の私たちには物事を考えることは全くできないからである。

And hence we cannot avoid sometimes thinking wrong, till this corruptible shall have put on 
incorruption.
従って、この朽ちるものが朽ちないものを着るまで、私たちはしばしば間違って考えることを避
けることができない。

"But we may carry this thought farther yet.
しかし私たちはこの思想をもっと敷衍することができるであろう。

A mistake in judgment may possibly occasion a mistake in practice.
判断の誤りは実行することに過誤の機会となりうる。

For instance: Mr. De Renty's mistake touching the nature of mortification, arising from 
prejudice of education, occasioned that practical mistake, his wearing an iron girdle.
例えば、教育に関する偏見から生じた、苦行により生まれつきの性質を変化させるというデ・レ
ンティ氏の誤りは、彼が鉄の帯を身につけているという実際の誤りを引き起こした。

And a thousand such instances there may be, even in those who are in the highest state of 
grace.
最も高い恵みの状態にいる人々のうちにさえも、幾千のそのような例があるだろう。

Yet, where every word and action springs from love, such a mistake is not properly a sin.
それにもかかわらず、愛から沸き出でるすべてのことばと行いに含まれるそのような誤りは罪
には相当しない。

However, it cannot bear the rigour of God's justice, but needs the atoning blood.
しかしながら、それは厳格には神の義に耐え得るものではなく、血の贖いを必要とするもので
ある。
(以下次号)

 
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