「同労者」第75号(2006年1月)                          目次に戻る

Q&Aルーム


 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に
あります。

質問 「聖書は、イエス・キリストが真の人間であることをどのように示していますか?」

回答例(作成者:野澤)
 「イエス・キリストの人性」について、R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を
引用して説明します。


<イエス・キリストの人性>
    ・・イエス・キリストは真の人間であられることを示す聖書の記述・・

4 人間的制限の数々(つづき)
4.2 知的道徳的制限
 イエス・キリストは人性にまつわる知的道徳的制限に従われた。

(1) イエス・キリストは知恵も身長も増し加わり、神と人とにますます愛されなさった。それ故、
彼は肉体的、心的、道徳的成長の人間的条件に従われた。
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)

(2) イエス・キリストの知識は制限されていた。
「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、
そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからで
ある。」(マルコ11:13)
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りま
せん。ただ父だけが知っておられます。」(マルコ13:32)

註1 イエス・キリストの知識は自己制限されていました。ただし、ピリピ人への手紙2章7節「ご
自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」のご自分を無にす
る・・ということを強調しすぎないようにする必要があります。この場合、前後の文脈によると、
主は自らの属性を制限されたというのではなく、ご自分の栄光を空しくされたのであると理解す
べきです。
註2 ヨハネの福音書3章34節「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御
霊を無限に与えられるからである。」教師としてのイエスは、聖霊に満たされていたために、神
のことばを語られたのです。
註3 主のご変貌として知られるとおり、内住の神的性質は、しばしばキリストの肉体という覆
いを貫いて外に顕れました。しかし、人間としてのイエスは、心の構成において、真の人間であ
られました。

(3) イエス・キリストは誘惑を受けられた。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでし
たが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおでき
になるのです。」(ヘブル2:18)
註1 肉的性質は人間性の本質的部分ではありません。肉性は、神が造られたものとしての
人性に属するものではありません。それは罪によって人間性の一部となったのです。
註2 ヘブル人への手紙2章14節「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた
同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力
を持つ者を滅ぼし、・・」、ピリピ人への手紙2章5節から8節「あなたがたの間では、そのような
心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿
であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現わ
れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
 イエス・キリストは自分の道徳的性質という点においても、自己制限をなされました。すなわち
彼は道徳的制限の下に置かれている人類を救うために、自らも進んで、自己を本質的に道徳
的制限の下に置かれたのです。なんと驚くべき彼の愛でしょう!




<今月の質問>
 「聖書は、イエス・キリストが真の人間であることをどのように示していますか?」
 次回もイエス・キリストの人性についての学びを継続します。説明について、疑問点がありま
したらお知らせ下さい。また別なテーマについても皆さんの質問を歓迎致します。



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