「同労者」第77号(2006年3月)
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巻頭言
「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのよ
うに書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうが ましだからです。というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。その ことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、 私はわざわいに会います。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しか し、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがある のでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ 自分の権利を十分に用いないことなのです。」(コリントT9:15〜18)
今年私達の教会の礼拝では、サムエル記第2から主にダビデの信仰について学んでいま
す。最近のところでは神の民の王として、それは専制君主のようなものでなく、いかに民に卑し められようとも、ひたすら民に仕えるものであることを告白し、そこに生きたダビデの姿を見ま した。
昨年から新たに私達の教会では様々な教会の活動のための献金が始められました。実際
に働く者達が自ら献げること、教会の働きを支え担うことを若者達にも教えたい、と牧師が語っ ておられた言葉に礼拝のメッセージとの一貫性を感じました。思えば私自身は若い頃甘えがあ ったことを思い起こしています。実際の活動に携わっていながら、支えて下さっておられる方々 のことを深く考えずに漠然と誰かが献げてくださる、というような考えがあったのだと思います。 願わくば今の若い方々はこの献金に込められたメッセージを自らのものとして成長に繋げてい ただきたく思います。
ここ数年礼拝のメッセージで旧約の聖徒達の姿を学ぶ中に、神から強いられた使命に立っ
ているにもかかわらず、地上では、誰にも知られず、何の報いも無く、却って与え、苦悩と労苦 と苦難に満ち、まわりからの不理解や非難、そのような中でただ神だけに目を向けて生き抜く 信仰者の生涯というものを強く神様から突きつけられているように感じています。その深みに 漕ぎ出す信仰があなたにはあるかと。
人間の側の我儘や弱さで聖書の価値観がオブラートに包まれたようにその鋭さを削がれてし
まう危険があります。しかしここに述べたようなことは厳然と聖書中に横たわる神の真理であ り、神が私達にチャレンジしておられる価値観です。それをそのまま鋭い剣のようなメッセージ として伺うことが出来ることを喜びとし、誇りとします。そしてそれを真剣に受けとめることが、キ リストの十字架によって贖われた者の務めであると私は信じます。また受け入れるとしても、 嫌々ながらそこに生きようとして、ややもするとそこに悲壮感のようなものを漂わせることにも 注意しなければならないと思います。
冒頭の御言葉は今年与えられたと信じる聖句です。パウロは強いられた使命に報酬を求め
ずに、かえって与えることを心がけ、その誇りこそが彼の報酬であるとしました。そこにある彼 の雄々しさ、力強さ、そして喜びを自らのものとさせていただきたく願います。 |