「同労者」第77号(2006年3月)
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もう一つのことは、真の悔い改めがなされる時、それは結実を生むということです。もし私達
が誰かに罪を犯したとしたら、進んで償いをする思いを持つまでは、決して神にも赦しを願わな いでしょう。私が誰かに大きな不正を行ったとして、それを償うことが可能だとしても、喜んで償 う気持ちを持たない限り、神に赦してくださるよう願うことは無駄です。私が他人のものを盗っ たと想像してみてください。私は償いをするまでは赦しを期待する権利はありません。
ある大都市で説教をした時のこと、説教の終わりに身なりの良い男性が私のところに来まし
た。彼は大きな苦悩の中にいたのです。「実は・・・」彼は言いました「私は金にだらしの無い人 間です。雇い主の金を盗ってしまったのです。それを返さないではクリスチャンにはなれないで しょうか」。「あなたはそのお金を使ってしまったのですか」私が尋ねると、彼は全部は使ってい ないと答えました。1500ドルぐらい盗ったけれども、まだ約900ドル持っているそうです。彼は 言いました「その金で商売をして十分返せる分を稼ぐというわけにはいかないでしょうか」。
私は彼にそれはサタンの惑わしであること、盗んだ金で成功を期待することは出来ないこと、
彼は持っている全てを返し、雇い主のところへ行って憐れみを請い、赦してもらえるように願う べきであることを伝えました。
「でも彼らは私を刑務所へ入れるでしょう。どうにか助けていただけませんでしょうか」と彼は
言いました。
「いいえ。神からの助けを期待する前にお金を返さなくてはいけません」
「それは非常に難しいです」
「確かに難しいでしょう。しかし大きな間違いは最初に不正を行ったことにあったのです」
彼の重荷は耐えられないほどに重くなっていました。彼は私に950ドルといくらかの小銭を手
渡すと、雇い主に返してくださいと言いました。翌日の夕方、彼の雇い主二名と私は教会の脇 部屋で会いました。私はお金を差し出して彼らの雇い人の一人からであることを告げました。 私が彼らに事情を説明し、彼が二人の正義ではなく憐れみを求めていることを伝えると、二人 の頬には涙がこぼれ落ち、彼らは「赦しましょう。我々は喜んで彼を赦します」と言ったのでし た。私は階下へ降りて彼を連れて来ました。彼が罪を告白して赦しを得た後、私達は全員ひざ まずいて幸いな祈り会を持ちました。神はその場所で私達に現れ、恵みをくださったのです。 |