「同労者」第78号(2006年4月)                           目次に戻る

JSF&OB

「祈りは道具」

 仙台聖泉キリスト教会  石井 和幸


 今年も暖かい季節を迎えようとしている。今冬はとにかく寒かった。毎晩ストーブをつけっ放し
にしないと、寒くて寝られなかった。
 さて、今回は祈り、デボーションについての話である。私はデボーションのために小部屋を用
意しているのだが、とにかく寒かったので、冬になってから聖書をその小部屋からベットの横に
移した。気負うことなく暖かい部屋で・・・とのねらいだったのだが、逆に毎日のデボーションが
滞ってしまった。それもそう、ベットの横に置いてある雑誌やCDやらと同じ高さに聖書を置いて
いた。やがて、別にやってもやらなくても・・・という思いに駆られてしまったのだ。
 そんな折、教会学校成人科にて、祈りの学びが始まった。テキストとして、E.M.バウンスの
「祈りは奉仕を生かす」という本に出会った。「・・・祈る説教者は、絶えず神に栄光を帰し、神の
福音を大いに前進させます。祈らない説教者と祈らない教会は、目に見える形では大いに前
進するかもしれません。・・・しかし祈りが基礎になければ、すべての成功は実際には意味が全
くないのです。祈りの伴わない働きは、すぐにいのちを失い、究極的には衰退します。」 ・・・と
にかく信仰者よ頼むから祈ってくださいよ!!と促される内容が続いている。これではいけない
と思い、使っていなかったもう一台のストーブを、祈りの小部屋に置くことにした。こうしてデボ
ーションは回復した。そして、そういった日々の営みの尊さを、分かりやすく表現した証に出会
った。私の教会の週報に掲載された玉城憲一兄の、CS成人科の学びを通しての証、〜以下
本人の承諾を得て抜粋〜
  
〜その本の中で「祈りだけが神の道具としてことを行うことができるという意味です。祈りは道
具です。神は効果ある執行者です。祈りそれ自体が地上で働くのではなく、人の手にある祈り
が神を動かしてことを行わせるのです。祈りが道具として用いられなければ神が働かれませ
ん」と書いてあり、祈りが道具だということは私にとって有益となりました。私も職人の一人であ
りますが、道具の大切さを知っています。職人にとって道具は重要です。その職人の道具を見
るとどの位の仕事ができるか判ると言われます。単にそれを金物屋に買いに行けばそれで間
に合うという道具もありますが、仕事に間に合うように少しずつ直していかなければならないも
のもあります。年月を掛けて道具を使いながら直していくのです。どうしてこの道具は切れない
のだろうかと考えながら仕事を全うするために調整していくのです。職人の道具のように信仰
者にとって神様に祈る事は無くてはならないものです。・・・祈っているうちに自分のことだけで
なく、神の御心はどうであるだろうか、神に従っていく事ができ、自分自身が変わらなければな
らないことを悟ります。本当の祈りはそうでなければならないこと、そして熱心に祈るものとなら
せていただきたいと思います。〜

同じ成人科で学ぶ某兄は、「祈りは鉛筆削りのようなもの、祈っていくうちに余計なものが除か
れ、祈るべきこと、なすべきこと、真実が示されてくる」と証しされていた。
信仰は行き当たりばったりではなく、その時調達すればいいのでもない。また何かを心得てい
ればいいものでもなく、常に、それこそ御心を捉えていなければならない。30代になってみて
分かるが、年を重ねると自分を変えるなんてことはしたくないのだ。でも、場合によっては自分
を変えることが御心だったりする。それは、御言葉、牧師先生や信仰の友を通して気づかされ
たりするが、最後には涙を伴う祈りの中で悟り、従順を告白していく〜この冬は、私はそのこと
を教えられた。
未来を担う若い同労者のみなさん、一緒に祈りを体得していきましょう!
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性
を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3〜4)





 

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