「同労者」第79号(2006年5月)                         目次に戻る

巻頭言
− 父の召天記念 − 
仙台聖泉キリスト教会  玉城 憲一

 「巻頭言を書いてください」と頼まれて、何を書いたらよいか迷いましたけど、父の召天の出
来事を巻頭言のことばとさせていただきたいと思います。
 私は昭和二十年に沖縄で生まれました。それは終戦の年でした。親は大変なところを通った
ようです。父は戦争のために台湾に疎開し、私は母の手で育てられましたが、親戚の援助が
あったから生きてくることができたようなものです。
戦争が終わっても父は沖縄に帰らず、日本本土に来て生活していました。
私は十九の時に父親と一緒の生活を始めました。父は大工でありまして、私は大工見習として
父の手伝いをしました。しかし仕事が難しく、簡単には覚えることができませんでした。私は嫌
になって家出をし、東京に行きました。
 東京で生活しているうちに、深川キリスト教会に行くようになり、そこで救いの恵にあずかりま
した。
 仙台に戻ってきて、現在の仙台聖泉キリスト教会に通うようになりました。最初は伝道会だけ
行っていましたが、だんだん祈祷会にも、それから礼拝にも行くようになりました。集会を守る
ことは戦いでありました。父に「言うことは何でも聞くから教会の集会だけは行かせてくださ
い。」と言って、教会に通い続けました。
 教会の集会に来ている時は、そこに自由があり、真理があることを喜びました。
 そのうちに、父は病気で入院するようになり、病院を転々と変えて行く生活がはじまりました。
最後に決まった所は、亘理の宮城病院というところです。そのひとつひとつを教会の先生と相
談して決めました。
その後私も病気になりましたけど、信仰をもって結婚させていただきました。
 恒励会の集会の時に、私はまとまりのない証をしてしまいまして、先生から注意を受けまし
た。言うべきところ、求むべきところはハッキリと言わなければならないという注意でした。
 次の日に病院から「家族の人、誰か来るように」との電話がありまして、病院に行きました。
病院に行きながら、「今日こそ父に話ができるように」と思いまして、どう話をしたらよいか考え
ながら行きました。病院に来たら父は吐血をしておりまして、「もう俺はだめだ」と言いました。
私は「何を言っているのだ。大丈夫」といい、「天国とは小さな子供が母親に抱かれて、まかせ
切ることの出来るような所だ。そこに行きたくないか」と言いました。すると父は、「そこに行きた
い」と言いました。私は「明日先生に来てもらいお祈りをして頂くけど、今日まず一緒にお祈りし
よう」と言いまして、一緒に祈りました。まさか




次の日に亡くなるとは思いませんでした。次の日に朝食を食べて来たら、人工呼吸器がはず
れてハアハアと呼吸をしていました。様子がおかしいので、看護室に行って「様子がおかしいか
ら来て下さい」と病院の方を呼んできました。看護婦さんやお医者さんが急に入ってきまして、
人工呼吸をしたり、いろいろと処置をしましたけど、駄目でした。
 私はこの出来事を通しまして、父親が「アブラハムのふところ」、天国に行ったということを信
じました。
「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」
(ルカ16:22)
「天国に行きたい」と言った父のことばを信じ、父はそのとおりにしていただいたと信じていま
す。
 父の死ということをこのような形で乗り越えてくることができたことを感謝しております。一人
の人の死を通してキリストの救いのすばらしさを悟ることができ、あらためて感謝しております。
 死んだ後に天国に行くことが出来る事が、本人とっても、残された者にとっても救いであっ
て、そのために私も迷わずに居ることができることが感謝です。またこれらのことができたの
は、先生の導きがあったからで、自分ひとりではとても乗り越えることができなかったと思いま
す。このような形で毎年三月に、父の召天記念の時が与えられ、また今年も墓参りをすること
ができて感謝しております。




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