「同労者」第79号(2006年5月)                          目次に戻る

わかふうふわかもん    − いっしょに学ぼっ!! −
「一粒の麦が死ぬ時」

仙台聖泉キリスト教会  山田 行 

 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一
粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな
実を結びます。」(ヨハネ12:23〜24)


 今月は、イエス キリスト様が、受難週と、イースターをお通りになってくださった記念の時で
ありまして、多くの感謝を捧げました。
 神様は、この出来事を私たちに対する「ご自身の愛」としてお与えになってくださいました。イ
エス様が福音書の中で「私の時」と何度もおっしゃていますが、神様が定めたこの、一回限り
の、繰り返すことのないこの十字架のあがないの時を、イエス様は、後にも先にも逃すことなく
「今がその時」と捉えてその十字架に向って歩んでくださった姿が心に深くとまりました。私は、
目の前にある困難や、心配事に直面した時、何も苦しい時にやらなくても、もう少し楽になった
らやろうとか、見通しがついたらなどと思う時がありますが、これが、生きている隣人との関係
にあるときは、愛のかかわりは時を無視したり時をずらしたりすることは、愛さないと同じことに
つながることがあることを度々感じる事があります。「その時」に真剣に向き合って逃げることな
く、なすべきことをしなくてはいけないことを示されます。 
 イエス様のゲッセマネの園における血の汗を流して祈られた神との語らいのなかで、神の栄
光をあらわす時であることを信じて立ち上がっていくお姿は、何度読んでも胸を打たれるところ
であります。
 もう一つ、イースターの礼拝で語られた中で、このキリストのすばらしい愛が私たち一人一人
に与えられたのですが「愛を受けるほうも大変なことなのです」という言葉が心に引っかかりま
した。私は、その愛が尊いものであればあるほど愛される側にも大きな責任と、またその愛に
どのように答えていかなくてはならないのかと頭を抱える思いになりました。
しかし、教えていただくうちに、こんな小さな私に神様は、讃美し続けること、また隣人を自分と
同じように愛していくこと、教会を助けていくこと、など自分を必要としてくれる人や場所を与え
てくださっていることを感じ、これらの中で神様の時をきちんと知りながら逃さずにどんな状況
にあっても喜んでいただけるように生きて行くことだと思いました。この愛を地に落としてしまっ
たり、下げすむようなことだけはしないように、大切に感謝しつつ持ち続けたいと強く願いまし
た。
 イエス様は十字架にかかるまでの受難と死を通して想像もつかないような苦しみと、激しい悲
しみ、恐れだったと思いますが、一粒の麦として地に落ちてくださることで私たちの今の苦し
み、悲しみもまた、分かってくださっているという幸いと、よみがえりの勝利も教えていただき、
また一歩踏み出す勇気が与えられました。



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