「同労者」第80号(2006年6月)
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「…『矢を射なさい。』彼が矢を射ると、エリシャは言った。『主の勝利の矢。アラムに対する勝 利の矢』… ついで、エリシャは、『矢を取りなさい。』と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエ ルの王に、『それで地面を打ちなさい。』と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。 神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あ なたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろ う。』」(列王記U13:17〜19) 5月20日、プロ野球東北楽天対巨人は9回表を終わって5対3と巨人リード。マウンド上は巨 人抑えのエース豊田。「あぁ〜楽天は今日もあっさり負けるのか」と思った矢先、最後にフェル ナンデスの逆転サヨナラホームランが飛び出す。仙台が驚きと歓喜に包まれた。 フェルナンデスという選手は4番打者でありながら、野村監督のこれまでの評価は低かった。 チャンスに打てず、無気力プレー。エラーをすると監督に「どうせまた仙台の寒さのせいにする んだろ」とボヤかれる始末。けれどもこの日は違った。監督は「やっと仕事をしてくれた。やっぱ りエースと4番が活躍すれば勝てるんだよ」と喜んでいた。 私は物事を進めるときに、時に「まぁいいや」といって、勝手に自分で範囲を決めてしまい、中 途半端に終わる傾向がある。好きな事、関心のある事には人一倍の労力をかけるが、それも やがて飽きがくると、テンションを下げてしまう。周りの人はそんな自分を「わかりやすい人」と 見る。これはいけないなと、示され気をつけている。当面は「結婚」というゴールに向かって人 生の試合をしているが、容易い道を選ぶために「教会」というチームを脱退することをせず、他 の教会へトレード志願したわけでもなく、自分が救われて、生かされている教会で建設に携わ ることを望んで歩んでいる。教会学校成人科で学んでいる本「祈りは奉仕を生かす」(E.M.バ ウンズ)の中から今回も一文紹介したい。 「〜私たちが生きている今の時代、世がチャレンジを与え、世が求めてくるのは、キリスト教 が実際的であってほしいということです。その教えが実際の中で表現され、理想の世界から日 常生活のレベルにまで引き下げられることを世は求めています。本当の意味でこれができる のは祈る人だけです。奉仕者と思いを同じくし、彼らのために神に祈ることを止めてしまわない 人だけです。ぶどうの木も、枝がなければ実を結ぶことができないように、福音の説教者は、 自分一人で与えられた要求に答えることはできません。聴衆席に座っている人が実を結ぶ人 でなければ、それは不可能です。彼らは、講壇の『理想』を、日常生活と日々の行動の中で『現 実』に翻訳する人でなければなりません。しかし、もし彼らが神に献げ尽くし、祈りに多くを献げ ているのでなければ、それをすることはないだろうし、またやろうと思っても実際できません。」 プレーを止めて楽になるよりも、ここぞという時お茶を濁さず力を発揮し、最後に逆転サヨナ ラホームランを打てたなら幸いである。そのために、なお日々祈りつつ歩もうと思う。 2006/5/21 |