「同労者」第80号(2006年6月)
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今、しなさい
今、この生涯、こそが唯一の憐れみの日であることを心に留めなさい。あなたは今悔い改め
て、恐ろしい過去を拭い去ることが出来るのです。確かに神はあなたを赦そうと待っておられま す。あなたをご自身のもとに連れ戻そうと探しておられるのです。ただ、聖書は明確に「この生 涯が終わった後には悔い改めがない」ことも教えています。死後の世界での悔い改めの可能 性について言う人もいるでしょう。しかし御言葉のどこにもそれは書かれていません。私は聖書 全体を注意深く調べてみました。しかし人が救われる別の機会があるということを見つけること は出来ませんでした。
なぜもっと時間を要求するのでしょう。今悔い改める時間が十分にあるではありませんか。も
し望みさえすれば、たった今罪から立ち返ることが出来るのです。神は言われました「わたし は、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・・だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル18:32)。
キリストは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来た
のです」と言われました。あなたは罪人ですか。それならこの悔い改めの呼び掛けはあなたに 向けて語られているのです。救い主の足元の塵の中に身を置き、自分の罪深さを認識しなさ い。古の取税人のように言いなさい「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と。そして いかに素早く神があなたを赦し祝福してくださるかを見てご覧なさい。そればかりでなく主はあ なたを義としてくださり、正しいとみなしてくださるのです。十字架の上でご自身の体にあなたの 罪を負ってくださった方の義の徳によって。
もしかすると自分は正しいと思っていて、それ故に悔い改める必要も福音を信じる必要も認
めない人がいるかも知れません。そのような人たちはたとえ話のパリサイ人のようです。彼は、 他の人々のように「ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではな いことを」神に感謝し、さらに続けて「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十 分の一をささげております」と言いました。そのような自分を義とする人へのさばきはどうだった でしょう。 「あなたがたに言うが、この人(哀れで罪を深く後悔し、悔い改めている取税人)が、 義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(ルカ18:11−14)。
使徒パウロは宣言しました「義人はいない。ひとりもいない」、そして「すべての人は、罪を犯
したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:10,23)と。誰も自分には悔い改めは必 要無いとは言えません。全ての人が自分にふさわしい立場――罪人という――を取るべきで す。そうすれば神は彼を赦しと義認の座に引き上げてくださいます。「だれでも自分を高くする 者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(ルカ14:11)のです。
心の中に真の悔い改めが見られるなら、どこでも神がそのたましいを迎えてくださいます。
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