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          「同労者」第80号(2006年6月)
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           幕屋の入り口の垂れ幕の前に全焼のいけにえを捧げるための祭壇が置かれ、その祭壇と
           
          垂れ幕の間に洗盤が置かれました。 
           幕屋と祭壇の周囲に亜麻布の幕による庭が設けられ、庭の門にも入り口としての垂れ幕が
           
          かけられました。 
           祭司たちは、祭壇の用にも、幕屋のうちに入る用にも、その都度洗盤の水で手と足を洗いま
           
          した。ここにも、水の洗いと全焼のいけにえの血によるきよめが示されています。これがイエ ス・キリストの贖いを象徴するものであることは言うまでもありません。神の家の用に仕える者 は、自らがまずその贖いに与り、潔いものでなれければならないのです。 
           幕屋、幕屋の用具につづいて、大祭司の衣装がつくられましたが、大祭司の衣装も、祭司の
           
          役目を示しています。 
           それは「栄光と美を表わす聖なる装束」(出エジプト28:2)であって、「胸当て、エポデ、青服、市
           
          松模様の長服、かぶり物、飾り帯」(出エジプト28:4)から成っています。 
           この大祭司の服装には、ふたつの意味があります。
           
          
           一つは、大祭司がイエス・キリストご自身の象徴であることです。
           
          
          「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」(ヘブル10:21)
           
          
          この偉大な祭司は、もちろんイエス・キリストであって、ヘブル人への手紙の記者は、このみこ
           
          とばの前後に、幕屋と犠牲の儀式、祭司の務めなどを解説していて、イエス・キリストが新約の 大祭司であることを示しています。 
           もう一つは、「キリストがそうされた(教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた)のは、
           
          みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、し みや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分 の前に立たせるためです。」(エペソ5:26〜27) 
          「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエ
           
          ス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(ペテロT2:5) 
          とあるように、教会が祭司であり、「栄光と美を備えた聖なるもの」とされなければならないこと
           
          を示すのです。そして、それは教会の構成員である私たちひとりびとりにも当てはまることなの です。 
           大祭司の服装には、三つの特筆すべき事柄があります。
           
          
           一つ目は、イスラエルの12の部族の名前を二つの宝石(しまめのう)に彫り、エポデと呼ば
           
          れる胴着の肩当てに取り付けたことです。それは「アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負 い、記念とする」(出エジプト28:12)ためでした。 
           肩に負うものは荷ですから、罪科と日々の悩みであって、十字架を負うに至るものです。
           
          
           二つ目は、イスラエルの12部族を象徴する12個の宝石をエポデの胸当てに取り付けたこと
           
          です。その胸当ては「さばきの胸当て」と呼ばれました。 
          「アロンが聖所にはいるときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上
           
          に載せ、絶えず主の前で記念としなければならない。」(出エジプト28:29) 
           「さばきの胸当て」の「さばき」は「審判」を意味するよりも、むしろ「判断」を意味します。それ
           
          には、ウリムとトンミムと呼ばれる二つの石が入れられました。その石で神の御心を伺ったの です。 
          「さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロン
           
          の胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸 の上に載せる。」(出エジプト28:30) 
           胸は心情の座であって、大祭司は民全体を心に覚えて神の前に出たのです。ですからこれ
           
          は、私たちの偉大な祭司(キリスト)が、私たちをその心にとめ、豊かな愛をもって、父なる神の 前に取りなしをしてくださることを示します。 
           大祭司の衣装で特筆すべき三つ目の事柄は、かぶり物に取り付けた札です。
           
          
          「かぶり物」は「栄光と美を表すターバン」(出エジプト28:40)ですが、その前面に、「主への聖なる
           
          もの」という文字が彫られた純金の札が取り付けられました。 
          「また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、 これを青ひも
           
          につけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。」 (出エジプト28:36〜37) 
           その札の果たす役割は大切でした。
           
          
          「これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、
           
          彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れ られるために、絶えずアロンの額の上になければならない。」(出エジプト28:38) 
          とのみことばが示している通り、それは聖なるささげ物に関するすべての咎を負うものであっ
           
          て、それが神に受け入れられるか否かを分けるものでした。 
           もし供え物がカインのささげ物(創世記4:5)のように神に受け入れられない物であったら、それ
           
          を幕屋の内に持ち込んで供えても何の意味があるでしょう。 
          「主の聖なるもの」、これが私たちの徽章でなければならないのです。
           
          
          (以下次号)
           
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