「同労者」第82号(2006年8月)                           目次に戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (66) 
D.L.ムーディー 著   仙台聖泉キリスト教会 山田 大 訳

 救いを疑うことは神を疑うこと

 疑いを持たないことは傲慢だと思っているかのような人々がいます。しかし疑いは神に対す
る甚だしい侮辱です。 もし誰かが30年来の知り合いを信用していないとしたら、それはその
相手にとって非常な不名誉でしょう。同様にもし私達が神を10年、20年或いは30年もずっと
知り続けているのにそれでも神を疑うとしたら神の真実を損なうことではないでしょうか?
 パウロや初代のクリスチャンたちや殉教者たちがもし疑いに満ちていて、火あぶりの刑の後
に、天国に行くのかそれとも地獄に落ちるのかわからなかったとしたら、あのようなことを成し
遂げ得たでしょうか。彼らは確信を持っていたに違いありません。
 C.H.スポルジョンは言います。「私はいまだかつて、コウノトリがもみの木を見つけた時に、そ
こに巣を造る権利について異議を唱えられたなんて話は聞いたことがありません。またウサギ
が岩の中に駆け込む許可を持っているかどうか問われたというような話も聞いたことがありま
せん。なぜならこれらの被造物が、神の備えられたものを使う権利があるかどうかをいちいち
疑ったり恐れたりしていたらすぐに滅んでしまうからです。 コウノトリは『おや、ここにもみの木
があるぞ』とつぶやきます。そして彼の妻にこの木は巣を造り雛を育てるのに適しているだろう
かと相談します。彼女はその考えに賛成し彼らは材料を集めそれらを組み合わせます。そこに
巣を造る権利についての審査は全くありません。ただ彼らは木の枝を集めて巣を造るだけで
す。
 断崖に住む野生のヤギは『私はここに住む権利があるのだろうか』とは言いません。しかし
彼はどこかには住まなければなりません。そして彼に丁度ぴったりの断崖があり、彼はその上
で飛び跳ねるのです。
 しかしこれらの口のきけない動物たちが神の備えを知っていても、罪人は救い主の備えを認
識しません。彼は逃げ口上で『救いは私のためのものでしょうか』と問い、『救いは私のためで
はないように思います』『それが私のために備えられているもののはずがないと思うのです』そ
して『それはあまりに良すぎる話で信じられません』と言うのです。
 コウノトリに向って『誰でもこのもみの木に巣を造る者は決してその巣が壊されることはない』
と言った人はいませんし、ウサギに『誰でもこの岩の裂け目に駆け込む者は決してそこから追
い出されることはない』というような神からの言葉がかけられたこともありません。しかしもしそう
なら倍の確信となるでしょう。
 そして罪人のために備えられたキリストがおられます。罪人の必要に真にかなう救い主で
す。さらに励ましの言葉が加えられています『わたしに来る者は決して退けない。誰でも望む者
にはいのちの水をただで受けさせなさい』」。


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