「同労者」第82号(2006年8月)                           目次に戻る

聖書研究

万人祭司・万人予言者・万人王(第8回)
仙台聖泉キリスト教会  野澤 睦雄
 
2.旧約における三つの職務の考察(つづき)
 2.1 祭司(つづき)

 前回から祭司の「任職の儀式」の考察をしています。
 雄牛の犠牲の次に、雄羊一頭が「全焼のいけにえ」として捧げられましたが、その血を祭壇
の回りに注ぎかけ、体はその足についた汚れと内蔵の汚物を洗い、すべてを祭壇の上で焼き
尽くすものでした。
「あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。
あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。また、その雄羊
を部分に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部分や頭といっしょにしなけれ
ばならない。その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、【主】への全焼のいけにえ
で、なだめのかおりであり、【主】への火によるささげ物である。」(出エジプト29:15〜18)
 また、先に記した、種を入れてないパン、油を入れたパン、せんべいは全焼のいけにえとい
っしょに祭壇で焼かれました。
「【主】の前にある種を入れないパンのかごの丸型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個
と、せんべい一個、これらをみなアロンの手のひらと、その子らの手のひらに載せ、これらを奉
献物として【主】に向かって揺り動かす。これらを、彼らの手から取り、全焼のいけにえといっし
ょに祭壇の上で焼いて煙とし、【主】の前になだめのかおりとする。これは、【主】への火による
ささげ物である。」(出エジプト29:23〜25)
 祭司の体は水では洗うことができますが、火を通すことはできません。代わりに「火によるさ
さげ物」がなされたのです。
 次にもう一頭の雄羊が殺され、その血を任職をうける祭司の右の耳たぶ、右手と右足の親
指につけ、残りの血は祭壇の回りに注がれました。この犠牲は、「任職の雄羊」と呼ばれてい
ます。
 「あなたはもう一頭の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。あなたはそ
の雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼
らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。あなたが、祭壇
の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとそ
の装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖な
るものとなる。あなたはその雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの
腎臓、その上の脂肪、および、右のももを取る。これは、任職の雄羊である。」
 犠牲の血に潔められる体の部位は、耳と手と足でしたが、これらは聞くことと、行うことと、歩
むことを連想させます。祭司は聞くこと、行うこと、歩むことについて、聖なるものでなければな
らないのです。私たちが新約の祭司にふさわしくあろうと思ったなら、聞くことのできる人、そし
て行いと、歩みに聖なるものでなければならないことを示しています。「聞くことができる」という
ことは強調してもしすぎることはありません。人は聞くことができないのが常なのです。神が語り
かけてくださることを聞き分けることができるか否かは、その任に相応しいか否かを決定づけ
ます。大切なことは、神は人を通して語られることが常であって、それを聞き分けることができ
るかどうかなのです。
 以上、雄牛と二頭の雄羊の犠牲による儀式は、次の内容であったことが分かります。
 雄牛による儀式は、「罪の赦し」でした。
 次の雄羊による儀式は、全焼のいけにえであって、これは「礼拝」を意味します。真の礼拝者
は霊とまことをもって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:23)が、霊は「聖霊」であり、真は「神のこ
とば」です。これは「火(全焼)によって聖別された」者に与えられます。(文語聖書では、まこと
は誠と訳されていました。)
 第二の雄羊による儀式は、「祭司としての任職」であって、聞くこと、行うこと、歩むことに聖な
るものであることが求められたのです。
 任職の儀式は七日間行われました。


 次に祭司の収入について考えましょう。
 祭壇に捧げられる犠牲の決められた部分は、祭司の収入(食べる分)になりました。
祭司、レビ人は、これらの捧げものと、民が任意に神に捧げる献金、生活上の様々な時点で
決められた献金、祭司の町の付帯地における牧畜や農耕などがその収入源でした。これらが
新約の私たちにどういう意味があるか、万人祭司という視点で考察する場合、実生活の収入と
考えてはなりません。なぜなら、万人祭司というのは、霊の世界のことをいっているのですか
ら。私たちは、神のために働くなら、その働きに応じて、霊的な祝福を受けるのです。
 パウロは、
「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずか
ることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の
ささえを得るように定めておられます。」(コリントT9:13)
といっています。つまり、今の教会のあり方においても、直接福音のために働く働き人たちに当
てはめられています。
(以下次号)



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