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          「同労者」第83号(2006年9月)
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          巻頭言 
          「私は生きているかぎり、【主】をほめたたえよう。 いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を
           
          歌おう。」(詩篇146:2) 
           最近、私たちの教会の礼拝の内に変化が感じられるようになっています。それは礼拝の司会
           
          に立つ時に特に子供達の讃美や聖書の交読がなされる中でその存在を強く感じさせられま す。単に子供達が成長してきていることがそれを意味しているのではないことが背景にはあり ます。 
           今年春から中学に入った方が二人おりますが、彼らが小学校に入ったころからでしょうか、
           
          盡子婦人伝道師は礼拝の前の教会学校の中で聖書の学びと共に、讃美することに多くの時 間を取り、その大切さと喜びを子供達に教えておられました。そしてその二人の後に続く子供 達にも同じように、その成果というものがすぐに現れたものではありませんが、続けられてきた ものが5年以上も経ってみた時に、まだ幼きたましいではありますが、讃美をしている姿を見る 時に、彼らも確かに礼拝者であることを思わされます。 
           礼拝の司会をする者にとって、それは礼拝を進行させていくことだけの役割ではなく、コリント
           
          T14:40に「すべてのことを適宜に、かつ秩序をもって行いなさい」と示されているように、讃 美をはじめ聖書の交読、朗読、そして公の祈祷を通しながら、一人一人への心が整えられて いくこと、そして説教者へ受け渡していくことの為に、立たされていることを思わされる時に、そ の中にこの子供達は、極端な言い方と取られるかも知れませんが、会衆をリードしているよう に思えるほど力に溢れています。 
           C.E.ジョファーソンの「教会の建設」という著書にこう書かれているところがあります。礼拝
           
          式の中に於いて詩と歌と霊に感じて作られた賛美歌にふれることにより、雑多な心意も、情念 も、ともにとけあって、会衆がみな一つ心になっていく。そして、その讃美は説教を助け、豊か に導くための大切なものであることを。 
           その価値というものをこの子供達が成熟した年令に達するまではわからないとしても恩恵の
           
          一手段であることを信じ、讃美を通して仲間(友)を結び合わせるものとなり、霊的成長に於い て欠くことの出来ない大切なものであることを理解させていただきながら、育んでいきたいと願 っています。もう少し年をかさねていくと、大きな声で歌うことが、恥ずかしいことのように感じて いくこともあるでしょう。けれども、どうかそのように口を閉ざしていってしまわずに、真の礼拝者 として神に受け入れられ、讃美を喜び献げる者たちであり続けていただきたい、と望み自らも この子供達の教会生活の中に一緒に取り組みをしていく時を獲得し続けたく願っております。  |