「同労者」第84号(2006年10月)                         目次に戻る

巻頭言
− 自転車旅行 − 
仙台聖泉キリスト教会  斎藤 望

「見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にあ
る矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時に
も、恥を見ることがない。」(詩篇127:3〜5)

 今年の夏休みは子供たちにとって意味のあるものでした。
 教会の仲間たちと楽しいこと、苦しいことをともにできたことは彼らの人生に多くの糧を与えら
れたことでしょう。特に我が家の二人の息子は自転車旅行に様々な思いをもって参加し、自分
の考えを整理し相談しながら事を進めたりと、得るところも大きかったようです。
 さて、30年前の話になりますが、当時17歳の私は教会のキャンプに参加するために自転車
で茨城県まで走りました。そのことには家族の大きな反対があり、自分の中にはこの出来事に
チャレンジするという強い思いがありました。当然、一度は行った道(車に乗せられて)とはいえ
不安もかなりのものでした。反対を押し切っていく以上、途中で投げ出すことや助けられること
など無い様にしようと心に決めて出発しました。しかしながらいざ走り出すと先ほどまでの決心
と裏腹に「今なら、帰れる。さあ戻ろう。」と語りかける自分がいました。勿論、出発前から何の
ために自転車で行くのかと自問自答し自分なりの答えを持って起こした行動ですからそう簡単
に戻るわけには行きません。大きな川を渡るときや県境を通るとき主に助け守られることを祈
りました。そのときの祈りにどれだけ励まされた事でしょう。
私が自転車でチャレンジすることの大きな目的は自分の能力を試してみることでした。それは
平凡な日常の中で自分の強さ(力や精神力)を測ることができないと思ったからでした。結果的
には途中で光明先生に荷物を運んでもらったりと助けられて行きかえりも守られ完走すること
ができました。これは私にとって大きな自信になりました。
しかし、その自信の中には、心配して祈ってくださった教会の方々のことや親兄弟、傍にいてく
ださった主を忘れてしまっている自分がいたのです。すべて自分がやったんだと勘違いをして
いる自分です。何をするときでも、苦しいときでもその自信が大きな励ましになりました、そして
また同時に自信が自分の偶像になっていたのです。
弱いときに助けてくれたのは誰か、祈りを聞き入れてくれたのは誰か、心配してくれたのは誰
か、そのときに考えるべきだったのです。
子供たちはこれから多くの経験や試練があることですがその一つ一つに神の臨在があり多く
の祈りが積まれていることを教え、矢筒にある矢がまっすぐに飛ぶように矯正と訓練をし、救い
に至らせることが親としての今の課題です。


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