「同労者」第84号(2006年10月)                          目次に戻る 

論  説

 − 自分にできることをしよう 

「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの
前に罪を犯しました。・・』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。・・息子は言っ
た。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなた
の子と呼ばれる資格はありません。』」(ルカ15:18〜21)


 読者の中には求道者の方々もおられるでしょうが、大部分は信者の方々であろうと思いま
す。教会の門をたたき、そこに長く連なっている理由は、救いを与えられ、恵みに進むことを願
ってのことでしょう。いのちを求めず知識を求めている人々や、神が私たちに下さろうと思って
おられるものを、見当違いに考えている人々は、早晩教会からいなくなってしまいますから。
 冒頭に掲げたイエス・キリストの話された弟息子(放蕩息子)の話は、神の恵に与るための大
切なヒントを提供しています。「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と神は約束さ
れましたが、弟息子が父の恩恵を「求める」ことは、「立って、父のもとに行く」ことに他なりませ
んでした。もし彼が、遠国にいたまま父の恩恵を待っていたなら、彼はもう一度息子として迎え
られたでしょうか。答えはノーです。彼はそこで飢え死にしたことでしょう。
 また彼の行った行動は適切でした。まず父のもとに行きました。そして、さらに大切なことをし
ました。それは、「お父さん。私は天に(神に)対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しまし
た。」と言ったことです。それは父のもとに帰るためには、決定的に重要なことでした。この話
は、父はそんなものはどうでいいと扱っているような雰囲気で進行しています。しかし、もしその
ひとことを言わなかったら、彼は父の家に一緒に住むのに相応しいものであったでしょうか。も
しそうであったなら、兄息子の非難を受けるのが相応しいに違いありません。
 私たちの人生には、多くの課題があります。その課題に対して、神の恵みに与りたい、神に
介入していただき、解決していただきたいと願います。そのような場合であっても、神の恵みを
お与えになる原則は変わりません。それは、神は「あなたのできることをしなさい。」と、仰るこ
とです。
何をなすべきか、そこに判断力や、事を処理する力量が問われます。私たちがなすべきことに
は、例えば急病なら救急車を呼んだりするような、事態を処理することもありますし、ただ神や
あるいはその課題を担って下さる方に委ねるだけのこともあります。祈るだけのこともありま
す。神が期待しておられる、その時々に相応しい行動は何か判断でき、それをなす力量が与
えられるよう心がけようではありませんか。まず教会で教えられたことに従って生きてみると、
それが身に付いてくるのです。


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