「同労者」第85号(2006年11月)                           目次に戻る

聖書研究

万人祭司・万人予言者・万人王(第11回)
仙台聖泉キリスト教会  野澤 睦雄
 
2.旧約における三つの職務の考察(つづき)
 2.1 祭司(つづき)

 祭司の職務について聖書はどのように記述しているか考察しています。その最も重要な点
は、人が神に近づく仲立ちをすることであって、レビ記にその内容が記載されています。前回
少し触れましたが、その内容が記載されている順序について、人の考えるところと異なってい
ます。その点について、マッキントッシュの解説を紹介しておきたいと思います。

 ・・次に本書(レビ記)のはじめの数章に記されている供え物の順序について一言述べること
にする。主はその順序を全焼のいけにえから始め、罪過のためのいけにえで終わりとしておら
れる。これは、主は人が始めとするところを終わりとされることを示すものであって、この順序
には特に大きな教訓がある。つまり、人はまず始めに悔い改めの心をいだき、良心が鋭く働
き、過去の生活が呼び醒され、人と神とに対して犯した多くの罪の汚れを思い出して、犯した
過ちとその根本について深く反省させられる。この時に、神は「凡ての罪過を赦す」ことができ
る犠牲をすでに備えておかれたことを知らされる必要がある。これらの事柄は、罪過のための
いけにえに示されている。
 しかし、信仰生活が進むに従って知ることは、犯した幾多の罪は一つの根から出た枝であ
り、一つの泉から出た流れであり、更に自分自身の内にある罪の性質がその根本をなすもの
であるということである。このような体験は十字架によってのみ知らせられる。つまり、十字架
は神ご自身が「肉において罪を処罰された」(ローマ8:3)ものであることを知らしめられる。聖書に
は、神は「いのちにおいて罪(数多くの犯罪)を定めた」と記されてあるのではなく、「肉において
罪(数多くの犯罪の根本である原罪)を処罰された」と記されている。これは重要な真理であ
る。キリストは単に「聖書に示すとおりに、私たちの罪(犯罪)のために死なれた」(コリントT15:3)
ばかりではなく、「私たちの代わりに罪(原罪)となられた」。これが罪のためのいけにえの教理
である。
 私たちの心が神の聖前において私たちの平安と喜びの土台であるキリストによって養われる
のは、私たちがキリストのみ業をを知り、心と良心に平安を得る時である。しかし、私たちの罪
(犯罪)が赦され、私たちの罪(原罪)が処罰されたことを知るまでは、平安も喜びを味わうこと
ができない。これが和解のいけにえや感謝の供えものの意味を知る前に、罪過のためのいけ
にえや罪のためのいけにえの意味を知らなければならない理由である。従って、和解のため
のいけにえが記される順序は、キリストについての私たちの霊的理解の順序に相応している。
 同様に、完全である順序は穀物のささげ物の場合も同じである。つまり魂がキリストとの霊的
な交わりの楽しさを知るように導かれたときに−−神の聖前で平安と感謝とをもってキリストに
養われたときに、キリストの人格の驚くべき奥義を知ることを希望するであろう。この希望は、
完全なる人性としてのキリストのひな形である穀物のささげ物の意味を学ぶときに達せられる
のである。
 全焼のいけにえについても同様である。これらの事はみごとに、詳細にレビ記に記されてい
る。いま供え物の順序についてわずかに見たに過ぎないが、まことに驚くべきことである。その
順序は、神から私たちに対する外向的なものであるか、私たちから神に対する内向的なもの
であるが、いずれの場合にせよ、十字架をもって始まり、十字架をもって終わるのである。例え
ば全焼のいけにえから始めるならば、それは神の聖旨を行い−−すなわちご自身を全く神に
まかせて贖罪をなされた十字架上のキリストを学ぶことから始めることであり、また罪過のた
めのいけにえから始めるならば、それはご自身の完全な贖罪の犠牲によって私たちの罪を取
り去りなさる十字架上のキリストを学ぶことをもって始めることである。
 いずれの場合にせよ、神である崇めるべきキリストの優れて美しくかつ完全であることを学ぶ
のである。
 これらの尊いひな形を詳細に学ぶとき、深い興味を起こされる。・・
−−C.H.マッキントッシュ「レビ記講義」(伝道出版社発行)から−−(文体を改めたもの)
(以下次号)





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