「同労者」第86号(2006年12月)                          目次に戻る 

論  説

 − クリスマスの光 

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとか
ら来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:4)


 クリスマスの季節がやってきますと、いつもよりイエス・キリストがこの世にこられたことに思い
がいきます。マリヤとヨセフ、一番最初にイエスを拝した羊飼いたちや彼らに主のご降誕を告
げた天使たちのこと、東方の博士たちのこと、シメオンやアンナ、バプテスマのヨハネの両親
ザカリヤとエリサベツ、またヘロデやメシヤがどこで生まれるか知っていた律法学者たちのこと
も考えるでしょう。
 東方の博士たちはどんな人々であったでしょう。アッシリヤに捕らえ移されたイスラエルの
人々の子孫でしょうか。それともバビロンに捕らえ移されたユダの人々の子孫でしょうか。彼ら
はメシヤの来られることを知っていました。彼らに与えられた光はほんのかすかなもので、太
陽の光ではなく星の光によって示されるものでした。しかし彼らはそのかすかな光になんと忠
実であったことでしょう。ですから、福音の述べ伝えられるところどこにおいてもこのことが語ら
れるとイエスがいわれた、イエスに香油を注いだベタニヤのマリヤと同様、東方の博士たちが
イエスを拝しにやってきたことが、福音が述べ伝えられるところどこにおいても語られるので
す。
 姦淫の現場で捕らえられた女をどう処置するのか、とせまるパリサイ人たちに、イエスは「あ
なたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と言われました。
「それを聞くと彼らは・・・いなくなった」(ヨハネ8:9)のでした。そのあとに語られたイエスのことばが
記されています。「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12) 光は罪人に己の姿を見させるものです。
そしてこの女の見たようにイエスの救いも見せるのです。
 シロアムの池で目を洗い、その目をイエスに癒された盲人は、イエス・キリストにある栄光を
見る目を与えられましたが、パリサイ人たちはそれを見ることができませんでした。「わたしは
さばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が
盲目となるためです。」(ヨハネ8:39) 光はすでに世に来られたのですが、盲目の者には見えない
のです。
 「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:18) とイエスは言われま
した。私たちは、クリスマスの節季にあたり、さらによく見える目を与えられたいと思います。そ
して、東方の博士たちにならって、かすかな光にも忠実に歩んでゆきましょう。


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