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          「同労者」第86号(2006年12月)
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           「全焼のいけにえ」についてどのようなことが記されているか、レビ記1章に記されていること
           
          を読んでみましょう。 
           それは、「神に受け入れられるため」であって、礼拝を意味します。そして、いけにえの頭に手
           
          を置くのは、いけにえが彼の代わりであることを示します。 
          「その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入
           
          れられるためである。」(レビ記1:4) 
           新約の時代には、それは「霊的になされ」実際に本人が献げられることが求められていま
           
          す。 
          「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いしま
           
          す。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。そ れこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1) 
          もちろん、私たちが神に受け入れられ、私たちが真の礼拝者と認められるのは、キリストの贖
           
          いのゆえであることはいうまでもありませんが、私たち自身も神に己を献げるのです。私たち の自我は焼きつくされて、神のものとならなければなりません。 
           ヘブル語でこの全焼のいけにえを「焼く」ということばは、ほかの供え物と違って、「香を焚く」
           
          のと同じことばであるそうです。全焼のいけにえは神の前にたちのぼる香ばしいかおりです。 
           全焼のいけにえは、その名の示すとおり、全部火で焼かれ、神に捧げられました。つまり、全
           
          部神が取られる分であって、人間はそれに与りません。他の献げものは、その一部が神に捧 げられ、残りは祭司やその家族の与るものでした。礼拝は神おひとりがお受けになるものだか らです。 
           全焼のいけにえは「傷のない雄」でなければなりませんでした。そして「皮をはぎ」(レビ記1:6)外
           
          だけでなく内も傷のないことが明らかにされました。「内蔵と足は、水で洗」(レビ記1:9)い、すべて の世の汚れが除かれました。それらによって、内も外も全く罪のないお方、この世の汚れを全 くお受けにならなかったイエスを表していると考えられています。 
           全焼のいけにえを献げるにあたって、献げる人と、祭司の役割がありました。
           
          
          「祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回り
           
          に、その血を注ぎかけなさい。・・祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上 にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭 壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。」(レビ記1:5、7、8) 
           いけにえの血を祭壇の回りに注ぐこと、祭壇の火を整えること、いけにえを祭壇の火の上の
           
          たきぎの上に置くことは祭司のなすべきことであり、かれらの特権でした。神に最も近づきうる のは祭司でした。 
           祭司がこの儀式を行い、全焼のいけにえを献げる人に神に近づくことを得させました。新約
           
          の時代にあっても、神は先に神の子となった人々を重んじ、彼らを通して他の人々が神に近づ くことを求められます。福音を委ねられたということはなんと大いなる栄光、大いなる特権では ありませんか。 
          (以下次号)
           
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