「同労者」第87号(2007年1月)                         目次に戻る

巻頭言
− 神 の 保 証 − 
森田 心

「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリ
ストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」(テモテT1:12)

 私の教会では毎月1回聖書研究会が開かれています。もう続けられて25年以上になると思
います。5年前に、私は担当者ではありませんでしたが、1回聖書研究会をやってみません
か、と牧師から声をかけられました。受けさせていただき準備をしていくうちに、1度の発表だ
けでは集約しきれず、2回続けさせて欲しいと願いました。その後、牧師から正式に担当者とし
て続けていって下さいと任命を受けました。
 教会のさまざまな働きは、能力や経験などによってだけで任命されるものではないと思いま
すが、この学びに関しては、ある程度の聖書の知識が求められてきます。それと今までその責
任を負ってきた方々は、導かれたテキストをそこで読んで発表するだけのものではなく、それぞ
れの方々が自らの信仰の証や、焦点を明確にしながら、その学びをされているのを、参加して
いる一人として見てきました。ですからそれが簡単に出来るものではないことと、自らの不十分
さを知りながら取り組みはじめました。この学びの機会は私にとって、知識と知恵を得て、今後
充分備えたものとして立っていくために必要な時であり、大切な働きであることが、御用を進め
続けさせていただく中で示されました。
 そして、なによりも私にとっては、牧師から任命を与えられたことの喜びがあります。この任
命は、当然のように私が受けられるものではありませんでしたが、足らない者にも働き場を与
えて下さり、期待をおいて下さることに感謝をしました。ですから、任命される時に自信がなか
ったり、大変な時期であったとしても、喜んで受けさせていただきたいと思います。若い時には
早く願っている働きが与えられたらと待っていた時もありました。そして少しずつ小さな働きから
与えられていきました。決して今まで上手に通過してきた者ではありませんが、今任命を受け
ている御用は、いつも大切に続けさせていただこうと思っていますし、又任命が解かれる時が
来たならば、どうしてですか、というのではなく、ハイ!と従っていくことが出来るように、そして、
それは次の方が活かされ、用いられていくことを信じていきたいと思います。
 礼拝の説教の中で、神様が私達に命令を与えられますが、それは神様は私達をよく知って
いて下さり、命じられた神様御自身がその責任を負って下さることであるということが語られま
した。その言葉は私達を子として下さっていることの喜びと共に、信仰をもって進みだそうとす
る時に、その保証はなんと力と支えとなることでしょう。神様が私に命じられる声を聞き逃すこ
となく、先延ばしにしていくようなことのないように与えられた働きを守っていきたいと思います。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)
 


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