「同労者」第88号(2007年2月)                         目次に戻る

巻頭言
− 主の懲らしめ − 
茂永 清子

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは【主】であ
る。」(箴言16:9)


 昨年の今頃、私の心は喜びつつ、いよいよ60歳を迎える時がきたのだ、と3月6日の誕生
日を心待ちにしておりました。家族にも一つの節目として祝ってもらいました。いつものように聖
書の御言葉を与えていただき、自分の道を思い巡らして順調な歩み出しでした。
 ところが60歳になって、私の思いとは裏腹に私の願い、思いはことごとく打ち破られ、日を追
うごとに自分の心も体も弱り果ててしまうことが訪れてきました。まず白内障の手術を受けるこ
とから始まり、もともと高血圧の治療を受けていたのですが、血圧が異常に高くなり、家事もで
きなくなるほど具合が悪くなり、家族に付き添われて病院を何カ所か駆けめぐりました。結果、
頭のCT検査を受け異常なしと言われ、背中のしびれや腰の痛みなども入院するほどのことで
はないと言われ、これまで通院していた内科で治療を続けることにしました。
 なぜこのように具合が悪くなったのか、心当たりがありました。家庭の事情もあって自分を取
り巻く環境が変わりました。生活のリズムも変えなければならなくなり、心配事を抱え心を煩う
ようになりました。でもこの事は私自身が神から問われている事であるとも感じていました。「あ
なたはどうしますか?」「どの道を選ぶのですか?」と主は私に問うてきました。私としては何と
しても家族とともに生きると言うことから自分をはずすわけにはゆかず、そうかと言って自らの
弱さ、足らなさ、無力な自分を思い知らされ、神の前に「ハイ」主に従いますと答えたものの、私
の心は大きくゆさぶられ、低迷した状態が何ヶ月も続きました。こうした自分を抱えていました
が、唯一、教会の集会は家族とともに守られていました。
 これまでの信仰生涯でも何度となく試みられる事はありました。が、しかし今回は、もはやこ
れまでと思われるほど私の心は為す術も主の手に委ねる以外ないところに追い込まれまし
た。ある朝、祈っているときに神からの語りかけがありました。それはキリストによる十字架の
贖いが、私にとっていかなるものであるか、父なる神のみこころが示されました。この時、私は
神が私の心を、あわれんで下さり、暗やみから光へと導いて下さったと信じ感謝しました。この
日より私の心は少しずつ回復を与えていただき、心配ごとは主の手に委ねられるようになり、
体調の方も落ち着いてきて、今は家族とともにあることを感謝しつつ歩ませていただいておりま
す。
 今回の経験を通して思うことは、地上での生活が許されている限り、贖われたものとして神は
私の心を点検なさるのだと教えていただきました。これからは年齢に相応しく担われてゆくもの
として、ひとつひとつ、主にあって整えられてゆく者でありたいと願っています。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさ
い。」(黙示3:19)
(仙台聖泉キリスト教会 会員)
 


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