「同労者」第88号(2007年2月)                          目次に戻る 

論  説

 − 聖書の前に遜っていよう 

「私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおり
です。・・。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たち
は、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを
招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく
気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないよう
にしなさい。」(ペテロU3:15〜17)


 私たちがどのような信仰を持っているかは、聖書に接する態度によって判別されます。それ
は、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:
12)と書かれている通りです。
 キリスト教関係のインターネットのホームページを見ていましたら、次のような主張を掲げて
いる人がいました。「私は、進化論を信じる。聖書には誤りがたくさんある。例えば、創世記の1
章と2章の記事は矛盾している。等々。」この人は神が奇跡を行われる方であることを信じてい
ません。それでいて、自分はクリスチャンであると信じているのです。なんと奇妙な信仰でしょ
う。
 私たちがイエス・キリストを信じ、創造主である神を信じるということは、神のことばである聖
書のことばを信じることに他なりません。それにも関わらず、この人はその信仰の根拠である、
聖書が誤りと偽りに満ちていると考えているのです。
 この人について、神のことばによって判別されることはこうです。この人は、自分がいかに罪
深い者であるか知り、その恐ろしさに震え上がったことがなく、その罪を言い表したことがなく、
そのためのキリストの贖いを信じたことがない。だからキリストの救いを経験したことがなく、神
に出会ったこともない。神との平和をもたず、神のことばに憩うことを知らない。そして神は奇
蹟の神であることを知らない。
 私たちが救いの恩恵に与るとき、救いは正しく奇蹟ですから、奇蹟の神を信じ、聖書のことば
が真であることを信じます。
 問題として取り上げられている創世記の1章と2章の間の違いは、2章では「神が人を創造さ
れた時、まだ地には草木が1本もなかった。」というように読めてしまうことです。」しかしそうは
書いてありません。「神が地と天を造られたとき」(創世記2:4)に「地には、まだ一本の野の灌木
もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。」(創世記2:5)と書いてあるのです。「神であ
る【主】は土地のちりで人を形造り、・・東の方エデンに園を設け、・・・。」(創世記2:7、8)はその
後に続きます。ですから、創世記1章と2章の間に矛盾があるという主張は読み誤っているに
過ぎません。
 私たちは神のことばをこれは正しく、これは違っているなどということができるほど、権威があ
るのでしょうか、すべてのことを知っているのでしょうか。ヨブ記40章、41章の質問に答えられ
るでしょうか。聖書の見かけ上一致しない箇所は、私たちがよく分かっていないだけなのです。
ですからペテロの勧めるとおり、強いて解釈しないようにしましょう。そして、神のことばの前に
遜っていましょう。


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