「同労者」第89号(2007年3月)                          目次に戻る

Q&Aルーム

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 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に
あります。
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<イエス・キリストの死>
先月の質問
 「イエス・キリストが死なれた結果何が起きたのですか?」


回答例(作成者:野澤)
また、R.A.トーレイが「聖書の教え」に整理した記述を参照させていただきます。

4.イエス・キリストの死の結果(つづき)
4.2 イエスの死の信者に及ぼす結果(つづき)

(21) 招きを受けた人々は、第一の契約のもとに犯した罪の贖いのためのキリストの死によっ
て、永遠の嗣業の約束を受け取ることができる。
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖
うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるため
なのです。」(ヘブル9:15)

(22) キリストの死によって私たちは死んだのであり、キリストの十字架に私たちは一緒に十字
架につけられたものであり、キリストが十字架につけられた時に、「古い人」は釘づけられたの
である。これがキリストによって私たちに与えられた真の位置である。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち
はみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。・・・私たちの古い人がキ
リストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪
の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。・・・もし私たちがキリストとともに
死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:3、6、8)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが
私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のために
ご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはな
りません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字
架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとり
の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」(コリントU5:14)
 キリスト者の生活とは、自分のこの世に生きている間を、このような信仰によって徹底的に生
きることです。自分が(詛われたものとして)十字架につけられたので、詛いの場所である十字
架上に自分自身を見、もはや己に生きようとしないで、ただキリストを自分の中に生かそうとす
るのです。古い人は既に十字架につけられたのですから、己は罪に死んだものであることと、
イエス・キリストにあって、神に生きるものであることを信じるのです(ローマ6:11)。 ところがキリ
ストの死によって私たち信者が立たされている立場を保って、どれだけの信者が自分自身を
見ているでしょうか。それは極少数であると思います。この点が、まさに復活のイエスが、充ち
満ちた復活の命を私たちの中に生かし、働かれることができない大きな理由です。ですから、
私たちはキリストと共に生きる前にまずキリストと共に死ななければなりません。



<今月の質問>
 イエス・キリストが死なれた結果何が起きたのですか?(つづきを考えてください。)



皆さんからの質問を受けつけています。メール、FAX、お手紙などで編集委員宛ご連絡くださ
い。




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