「同労者」第89号(2007年3月)                          目次に戻る 

論  説

 − 主のご受難と服従 

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にし
て、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を
卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6〜8)


 今年の教会の暦では、4月8日がイースターです。今月は主のご受難について考えましょう。
冒頭のみことばに示されているとおり、主のご受難は父なる神への服従によるものでした。
「あなたがたは一致を保ち・・なさい。」(ピリピ2:2)と命じられています。各教会間、教団間とすこ
し範囲を広げるとその難しさを感じさせられます。教団・教会・信者が一致を保てない理由はい
ろいろあることでしょうが、小さな教団、小さな教会の中で一致が保たれないことがあるとした
ら、その理由の一つに、「服従」という学課を働き人がその若いときに学び損なったため、とい
うことが挙げられるでしょう。
 それを学ばなかった教役者は、信徒が牧師に服従することを、その信者の信仰が立つか倒
れるかを決する重要事であると思わないことでしょう。そういう人々は「神に服従する」といい、
服従するとは、神が摂理によって置かれた「人に服従する」ことであることを理解しないことでし
ょう。
 時が来れば、やがてその服従していた人から「あなたはもう自分の足で歩みなさい」といわれ
るか、あるいは神が摂理によってその人との関わりを取り除いて、自分が主となって信仰の道
を歩むようにされます。「先生でも間違うかもしれない。間違っていることには従えない・・。」と
信者がささやくかも知れません。しかし、「人に服従する」とき、それが摂理によって導かれたも
のであるなら、神が責任をとり、すべてをよきに導いて下さる信仰が根底にあります。「妻たち
よ。自分の夫に服従しなさい。たといみことばに従わない夫であっても・・」(ペテロT3:1)なぜでし
ょうか。摂理によって神がそこにあなたを置かれたのだから、神が責任をとってくださるからな
のです。
 牧師には「群れの模範となりなさい。」 (ペテロT5:3) 夫には「自分自身のように妻を愛しなさ
い。」(エペソ5:25)と神は命じておられます。
 神の命を守って、先生が私を愛してくださる、と信じられる信徒は幸いです。神の命を守っ
て、夫は私を愛してくれると信じられる妻は幸いです。うるわしい教会はそこにあります。すべ
ては、主に倣って服従の学課を学ぶところからはじまります。これを私たちは大切にしていきま
しょう。
 


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