「同労者」第90号(2007年4月)
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「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリスト
の死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10〜 11)
前号にも記しましたが、今年の教会の暦では4月8日がイースターです。主の復活と私たち
の復活について考えましょう。
イエス・キリストが十字架の死をとげられ、葬られ、復活されたことを、私たちは信じていま
す。礼拝で毎週私たちは「使徒信条」を自分の信仰として、「・・死にて葬られ・・甦り・・たもう主 をしんず。」と告白しています。
復活・・なんという栄光でしょう。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しい
もので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらさ れ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだが あるのですから、御霊のからだもあるのです。」(コリントT15:42〜44)とパウロが記したことばか ら、私たちが復活に与る時、私たちに与えられる体は、朽ちないもの、栄光あるもの、強いも の、御霊に属するものであることが分かります。
天国は「霊」の国ですから、物質の肉体ではそこに入れないのです。
「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ち
るものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょ う。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たち まち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えら れるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を 着なければならないからです。」(コリントT15:50〜53)
パウロはなんとかして、自分もこの栄光ある復活に与りたいのだ、だからキリストの苦しみと
死にも同じ状態になることにも与るのだと述べています。
栄光は欲しい、けれども十字架は嫌だ、それが普通の人だれしもが思うことでしょう。けれど
も神がお与えになる十字架は負わなければなりません。
栄光は十字架のこちら側でなく向こう側にあります。
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