「同労者」第91号(2007年5月)                           目次に戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (75) 
D.L.ムーディー 著   山田 大 訳

 救いの確信は確かな事実へ

  前項で引用したこれらの聖句に、あなたのための保証があります。私は「知っている」ので
す。あなたは、私を義と認めてくださった同じ神が、私を罪にお定めになると思いますか。それ
は非常に不合理なことです。人間も、御使いも、悪魔も、私たちや神ご自身に対してどんな非
難もすることが出来ないように、神は私たちを救おうとしておられます。神は御業を完全にされ
るのです。
  ヨブは私たちよりも暗い時代を生きていましたが、ヨブ19:25には「私は知っている。私を贖う
方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」とあります。
  同じ確信がパウロのテモテへの最後の言葉を通して息づいています。「そのために、私はこ
のような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私
は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のた
めに守ってくださることができると確信しているからです」。それは疑いではなく知識に至る種で
す。「私は...知っており」「私は...確信している」とあります。「希望する」という言葉は聖書の中で
は疑いを表すためには使われません。それはキリストの再臨や、体のよみがえりに関して使わ
れます。私たちは、自分がクリスチャンであることを「希望する」とは言いません。私はアメリカ
人であることを「希望する」とか、私は結婚していることを「希望する」とかいう言い方はしませ
ん。それらは定まっていることがらなのです。家に帰ることを希望するとか、会合に参加するこ
とを希望するとは言うかも知れません。でも私はこの国に来ることを希望するとは言いません。
なぜなら私はもうここにいるのですから。そしてもし私たちが神によって生まれたのなら、私た
ちはそのことを知っていますし、私たちが御言葉を探し求めるとき、神は私たちを暗闇に捨て
置かれません。
(この項続く)
(仙台聖泉キリスト教会 会員)




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