「同労者」第92号(2007年6月)                          目次に戻る 

論  説

 − 主と共に死に主と共に生きる 

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちが
もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまっ
た者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリ
ストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:6〜8)


 今年も、受難週、イースター、ペンテコステと教会の暦も進んできました。イエス・キリストがこ
れらの出来事を通して私たちに、救いの道を拓いてくださったわけです。
 パウロは、救いに与った人々に、「・・罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれまし
た。・・それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとど
まるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、な
おもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ5:20〜6:2)ということばを投げかけています。
 死ということの影響力について、身近な者の死から考えさせられます。死によって、
・夫さえも失う・・「私の夫よ。他のひとは彼にさわらないで」と言えなくなる
・この世の富に関すること、つまり長年働いて蓄えた財産に対する権利、あるいは長年掛けた
年金を受け取る権利といったものをすべて失う
・この世の楽しみも失う
・その他いっさいを失う
ことになります。
 クリスチャンにとって、これは果たしてふさわしいだろうか、と疑問に思える世の楽しみがあり
ます。それをしようか、しまいかと迷うとき、「キリストと共に死ぬ」ということが現実になってきま
す。その楽しみに対して、私は死んだ者、それを用いる権利は、キリストと共に死んで失われ
たのです。
 楽しみと表現しましたが、それは「地につく宝」であって、人により千差万別です。他の人には
つまらないものに見えても、本人はそれに執着を覚えるものです。
 私たちはキリストと共に死んで、それにも死んだのです。
 ですから、世の楽しみを楽しみとして生きるのではなく、キリストと共に生きる中にある楽しみ
に与らなければなりません。
・神は愛です
・罪が赦された
・キリストが救って下さった
というようなことから、私たちはさらに前進しましょう。さもないと、「キリストの愛の広さ長さ高さ
深さがどれほどであるか」(エペソ3:18)を知ることができません。それは、「キリストと共にこの世
に対して死に、キリストと共に生きる」ことによってのみ、知ることができるものなのです。
 



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