「同労者」第92号(2007年6月)
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「盲人は、ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」(ルカ18:39)
私はいつも健康のために?ダイエットのためにです。30分くらいのウォーキングをしていま
す。わざわざ時間をとるのはもったいないので通勤でバスに乗らないで地下鉄の駅まで歩くの です。この時はいつも祈りながら、歩いています。だから涙が溢れることはしょっちゅうで周りの 人はいつも変な目で見ていますがこの歳になると平気になってくるものです。祈りは私にとって 呼吸と同じようなくらい自然でまた無くては生きられないような大切なものです。食事の時や、 寝る時、デボーションに限らずどんな時でも祈ることが出来ます。
上記のみ言葉はイエス様が伝道中にイエス様に向けての一人の盲人が叫んだ必死の祈り
の姿です。私は彼の必死な姿に本当に心が打たれます。彼はイエス様しかもう自分の悩みや 苦しみ、目が開かれるいやしをなして下さる方はいないと信じていました。その苦しみは、願い はこの「ますます叫び立てた」という言葉に本当に切実に彼が戦って祈り続けていたことが感じ られ、私は感動さえ覚えます。私たちも神への願いがあるときには真剣な祈りが出てきます。 また自分の弱さや愚かしさに気付くときも神様の前にひれ伏して祈ります。また、自分の周りに 起こる心配なこと悲しいこと。そして家族や教会の方々、大切な友の祈りや願いを知る時に祈 りが溢れます。叫ぶような祈りや涙が溢れるような祈りを神様は受け入れてくださいます。私た ちは、もう神様に働いて頂かなくては進めませんという状況になればなるほど祈りによって心に 全能者であられる神様が私の事を知っていてくださるという平安と慰めが与えられます。そして 常に感謝を忘れず希望をもって立ち上がる力が与えられます。私たちは祈り続ける力も与え て頂かなくてはいけません。すぐにあきらめてしまったり、自分で小細工でもして忘れようとした り、祈りの価値を低く感じてしまったりします。祈りによって神様にこの盲人のように必死になっ て願うことを神様は喜んでくださるのではないでしょうか。私が感動するように神様も心を動か して下さるのではないでしょうか。
信仰者の幸いな特権であり戦いの武具である「祈り」を呼吸をするようにいつでもどんな時で
も祈る器となって私たちの心を注ぎだし神様と共に歩ませていただきたいと思います。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)
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