「同労者」第93号(2007年7月)                         目次に戻る

巻頭言
− 主の恵み − 
茂永 和子

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何も
することができないからです。」(ヨハネ15:5)


 この年も早くも前半が過ぎ、後半の歩み出しをさせていただこうとしています。このところまで
主が共に歩んで下さっていることを覚え感謝しています。
 半年を振り返り何かが大きく変わったわけではありませんが、毎週毎週の礼拝や祈祷会、そ
の他の集会の中で語られるメッセージやお証しを通してたくさんの恵みや励ましをいただいて
いることを思います。
 何も無い時には当然与えられる恵みのように思いがちです。幼稚園に通う娘も2月にはイン
フルエンザ、6月にはおたふくかぜと外に出られない時を過ごし、私も教会に行くことができな
いという時がありました。
 祈祷会、礼拝、また次の祈祷会と連続して集会を休むということは私の信仰生活の中ではあ
まり無いことでした。集会の中で語られていた内容は家族を通して間接的には聞くことはできて
も、直接その恵みに触れることができないという寂しさを覚えました。普段、自分はこれだけの
集会に出ているのだから大丈夫というものでは決してないことを思います。絶えず探られ整え
ていただかなくては、日々の生活の中で信仰を持っていない人となんら変わりのないような歩
みをしてしまいがちな者であります。
 結婚と同時に始められた家庭集会もほとんど毎月のようにさせていただき7年になろうとして
います。牧師先生ご夫妻と私たちの4人でのスタートでしたが今では家族も加えられて持たせ
ていただいています。平日の夜ということもあり主人の仕事の都合でなかなか予定が立たずに
一週間前になってお願いすることもしばしばですが、お忙しい中時間を割いて来てくださり守ら
れてきました。
 一回一回は小さく見えてもその積み重ねが振り返ってみる時に大きな恵みに変わっているこ
とに気づかされます。ものの見方や考え方、自分にはこんなことはできないと思っていた枠を
少しずつ神様はみことばを通して、人格との交わりを通して広げて変えて下さっていることを思
います。それは主の証人として間に合うものとなることを期待されているからだと信じていま
す。
 後半戦もどのようなところを通らせていただくのかはわかりませんが、主が与えてくださるメッ
セージと共に進ませていただきたく願っています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)



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