| 
           
          
          「同労者」第93号(2007年7月)
                                    目次に戻る
           
          
           救いの確信は確かな事実へ(つづき)
           
          
           神は、キリストが私たちのために既に払ってくださった負債の返済を、再度要求されるでしょ
           
          うか。キリストが十字架の上で、ご自身の体に私の罪を負ってくださったのに、私も罪のために 同じようにしなくてはならないのでしょうか。 
           イザヤはこう書いています「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎の
           
          ために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは いやされた」。またローマ人への手紙4章25節には「主イエスは、私たちの罪のために死に渡 され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」とあります。私たちはキリスト を信じ、彼の完成された御業の恵みを共に受けようではありませんか。 
           イエスはヨハネ10:9で「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。
           
          また安らかに出入りし、牧草を見つけます」と言われました。さらにそれに付け加えて、「わたし の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしに ついて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、ま た、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えにな った父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはで きません」(ヨハネ10:27〜29)と言っておられます。 
           考えてみてください。父と子と聖霊なる神が、私たちを守ると誓っておられるのです。御父だ
           
          けでなく、御子だけでもなく、三位一体の神がそう言っておられるのがあなたはわかりますか。 
          (訳者 仙台聖泉キリスト教会 会員)
           
          
  |