「同労者」第93号(2007年7月)                           目次に戻る

聖書研究

万人祭司・万人予言者・万人王(第19回)
野澤 睦雄
 
2.旧約における三つの職務の考察(つづき)
 2.1 祭司(つづき)

 イスラエルの男子が年に三回、神の前に出て礼拝を行う祭りの最初である過越(過越と種な
しパンの祭り)の時に、イエスの受難と復活がありましたが、つづく第二の祭り五旬節に聖霊が
おいでになりました。第三の祭りである仮庵の祭り(ラッパの祭りから仮庵までの総称として)(レ
ビ記23:24〜43)の出来事はまだ起きていません。主の十字架と復活、聖霊降臨に匹敵するこ
れから起こるできごとは、主のご再臨があり千年王国が始まること以外にはありません。イエ
ス・キリストは仮庵の祭りの日に再びおいでになることでしょう。それが最も有力な推論であると
言えます。
 「キリストがそうされた(十字架上でご自身を私たちのために捧げられた)のは、みことばによ
り、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわ
や、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立
たせるためです。」(エペソ5:26〜27)と聖書にあるように、イエス・キリストは過越の祭りの出来事
を通られました。
 聖霊は、五旬節の日に降臨されましたが、それは、おそらく仮庵の祭りの日においでになる
であろう御子イエス・キリストのために、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷
のないものとなった栄光の教会を、イエスの前に立たせるために」イエスの霊として私たちを助
けるためです。私たちがご再臨の主にお会いするためには、主が聖であられるように、私たち
も聖でなければなりません。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求
めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14) ご再臨の主の前に
立とうと思う者は、身を慎み、聖霊の助けを得て、潔く歩むことを努めます。私たちがクリスチャ
ンとしてこの人生を歩むのは、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」の一員に加えられて、
主の前に立つためです。教会を建設するということは、教会員のひとりひとりをそれに相応しい
者として整えることに他なりません。ですから、受難週とイースター、そしてペンテコステを記念
して礼拝するように、主のご再臨と千年王国の到来を覚えて仮庵の祭りの礼拝をすることがあ
ったら幸いなことでしょう。
 旧約の祭司たちは、これらの祭りの祭儀を執り行いました。彼らは動物の犠牲によりこの世
の事柄としてそれを執り行いましたが、新約の祭司である私たちは、イエスの血によって霊の
世界の事柄としてそれを執り行うのです。(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会会員)


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