「同労者」第94号(2007年8月)                          目次に戻る 

論  説

 − 信仰の歩みにおいて考えるべきこと 

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者
です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:10〜11)
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」
(マタイ12:20)
「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っ
ても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:30)


 冒頭に掲げたみことばのとおり、イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、そ
れを豊かに持つため」であると言われました。イエスの行われたことについて、それを身近に
観察した弟子たちは、予言書に記されている通りだと実感し、「彼はいたんだ葦を折ることもな
く、くすぶる燈心を消すこともない」と、イザヤ書のことば(42:3)を引用して、それを福音書に記
しました。
 それは弱い者への配慮が十分になされていることを意味しています。人それぞれに適したお
取り扱いをされたということです。
 しかし、イエスの述べられたご命令は、「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)であり、上述のよう
に「右の手があなたをつまづかせるなら、切って、捨ててしまいなさい」というように厳しいもの
でした。
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と述べられて、それを実行されまし
た。そして、弟子たちに「あなたがたもそのようにしなさい」と命じられました。「もし、あなたがた
がわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわ
たしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。・・わたしがあ
なたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がそ
の友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:10
〜13)
 イエスは、弟子たちにご命令を出しっ放しにはされませんでした。ご自分でそれをやってみせ
たのです。自分でやってみせることができないことを、誰かにすすめることは困難です。
 そしてもうひとつ、自分にできてもそれを同じようにやってもらいたいと思うその人が、まだそ
れができていないということは、その人にとって学習や訓練が必要であったり、時には大きな飛
躍を必要とすることを意味します。取り組む意欲を起こさせること、必要な訓練に耐えること、
恵みによって飛躍すること、それを隣人に受け入れて貰うには、模範となることから始まって、
なんと多くの事柄が自分に返ってくることでしょう。そこに私たちの歩みについての工夫の必要
があり、イエスの姿にその模範があります。
 



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