論説
  
  
  
  
  
  − 神に近づく (20) −
  
  
  
  
  
  
  
  
  「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右
  側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。こ
  の人はどうですか。」 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、
  それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」(ヨハネ 21:10-22)
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
    「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ 15:14)と言われた
  ことは「すべての人」に対することばであることは疑う余地がありません。
  
  
  
  
   私たちは神を信じて生活をしていますが、日常の生活の中で、神は私たちに「これこれのことをしなさい」と言ってくだ
  さるでしょうか?普通はそれはありません。もしあったとしても希なことです。聖書のことばもいま目の前に起きているこ
  とに対して、どのことばがあてはまるのか、そう簡単に把握できるものではないでしょう。
  
  
  
  
   摂理によって神が私たちを導き、私たちひとりひとりに担わせなさる役割、それがヒントになります。
  
  
  
  
   神が担わせなさる役割の例を、ダビデとヘテ人ウリヤの関係で考察してみたいと思います。
  
  
  
  
   父なる神は、ダビデを選び、イスラエルの王とし、やがておいでになるイエス・キリストがダビデの子と呼ばれ、ダビデ
  の王座につかれることをお考えになったことは明白です。
  
  
  
  
   神にとって、ダビデをそのような位置に据えるためには、彼の内にどうしても取り扱わなければならないものがありま
  した。
  
  
  
  
   まず彼の内にある彼の「実態」がどのようなものであるか、本人に悟らせる必要があります。それで、神はダビデがバ
  テシェバを王宮に呼び出し、姦淫をし、それを覆い隠すために、夫のウリヤを殺すということをやってのけることを途中
  で止めたりなさいませんでした。それで彼の内にあるものが明らかになったのです。
  
  
  
  
   ウリヤという人物はこうでした。彼はユダヤ教に改宗した異邦人、ヘテ人です。いのちをかけてダビデの兵卒を務めま
  した。軍人としてのめざましい働きをした立派な兵士であったことは、ダビデの30勇士に数えられていることからも明ら
  かです。同じ30勇士に数えられた、ダビデの相談役といえるアヒトペルの息子エリアムに好感を持たれたに違いありま
  せん。エリアムは自分の娘をウリヤの嫁にしたのですから。そういう人物であったウリヤは、妻を奪われ、いのちをかけ
  て仕えたダビデに殺されました。こうしてウリヤの全生涯は「ダビデのために」用いられました。神はダビデのためにウ
  リヤを必要としたのです。
  
  
  
  
   ダビデは神が遣わされた預言者ナタンの「あなたがその男です。」(サムエル記U12:7)ということばを聞いて、自分の実
  態を悟りました。そして悔い改め、それを隠しておかず、公にしました。そして神の憐れみに生きる自分を人々の前に
  晒しました。
  
  
  
  
   こうしてダビデの内にあったものは取り除かれ、彼はやがておいでになるイエスが、「ダビデの王座」につくことにふさ
  わしいものになりました。
  
  
  
  
   神が皆さんに、「あなたはヘテ人ウリヤです。」といわれたらいやですか?
  
  
  
  
  「あなたはダビデをつとめなさい。一敗地にまみれて、悔い改めた姿を晒しなさい。」と神に言われたらどうでしょう?
  
  
  
  
  「あなたは私に従いなさい。」といわれて「はい。」と応えたら、どれでもみこころのままに、ということです。
  
  
  
  
  
  
  
  
   これが、神が人をお取り扱いになる典型的な事例です。
  
  
  
  
   私たちも自分の内にあるものが明らかになり、それを神に取り扱っていただくためにウリヤを要します。それは夫婦
  のあいだでも同じです。死んでしまうと後がありませんが、通常夫がダビデで妻がウリヤあったり、妻がダビデで夫がウ
  リヤであることが、私たちが当面する事態のときどきにあらわれます。ウリヤになることが、イエスの言われた十字架を
  負うことでしょう。一方ダビデになった方も、もしダビデがしたように真の悔い改めをなし、神が人をキリストの体に相応
  しいものとしてくださる証人となることが十字架を負うことになるでしょう。それを通して、神の「奥義」に触れることができ
  ます。
  
  
  
  
  
  
  
  
   そのような信仰生活ができるなら、栄光の教会が建てあげられます。
  
  
  
  
  「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。・・・夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のため
  にご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水
  の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つな
  い、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」・・・「それゆえ、人は父と母を離れ、
  その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペ
  ソ5:22-32)
  
  
  
  
  
  
  
  
   信仰生活の中で、ダビデとウリヤを見ない人は、栄光の教会に与りません。
  
  
  
  
  それができるように、人に妻をお与えになったのは神の知恵です。
  
  
  
  
  「人が、ひとりでいるのは良くない。」(創世記 2:18)のです。
  
  
  
  
  ひとりでいると、この栄光の教会に与る営みをする機会がありません。独身の人たち、配偶者を求めましょう。
  
  
  
  
   その道を歩んで、私たちも神に近づくものでありましょう。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  