聖書研究                  結実の考察(第37回)
  
  
  
  
  
  野澤 睦雄
  
  
  
  
  
  
  
  
  「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、
  あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 15:16)
  
  
  
  
  「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ
   15:8)
  
  
  
  
  
  
  
  
   
  
  
  
  
  <第7章 教会と聖潔>
  
  
  
  
  
  
  
  
   前回「教会の関係」と表現するとよい人と人との関係があることを説明しました。
  
  
  
  
  今回はその関係はどういう働きをするか考察します。
  
  
  
  
   以下に本文を引用します。
  
  
  
  
  
  
  
  
  ・・・・・・
  
  
  
  
  7.3) 教会の関係の中でなにが造られるか…聖潔に生きることのできる素地
  
  
  
  
   「分かる」ことが「できる」ことであると錯覚する人が多くいます。愛とは何とすばらしいものだろう、と分かったとします。
  すると自分が愛を持っているかのごとく思うのです。実際は分かっただけで喜んでいるのです。
  
  
  
  
   謙遜であること、忍耐深いこと、寛容であること、愛することは何かのスポーツが出来るようになることよりも難しいの
  です。スキーに乗ったことのない人が、スキーの本を読んでスキーの乗り方が分かったからといってスキーに乗れるで
  しょうか。子どもの時、スキーに乗ることを練習します。転んでは起きあがり、転んでは起きあがり何回転ぶでしょうか。
  そのうちにすいすいとスキーに乗れるようになります。おとなはこの転ぶことに耐えられないのです。ですから幼少の
  頃、少年の頃、少しでも若いうちに訓練を受けることが必要なのです。少し乗れるようになってから解説書を読むと、解
  説書に書いてあるとおりに乗ることができ、その説明が生きて働くのです。信仰の世界も同様です。少しでも若いうちに
  信仰の訓練を受けなければなりません。
  
  
  
  
   かつてスーダラ節という歌が流行りました。その一節に「…わかっちゃいるけどやめられない…」とあります。実に人間
  の妙をついていることばです。人が聖潔に生きることは、
  
  
  
  
  "分かっただけ"ではできないのです。
  
  
  
  
   信仰は、またことばに似ています。救われていない人は、神のことばの外国人です。外国語を少し勉強したからと言
  って、そのことばを話せるでしょうか。信仰とは、神のことばを話し、神のことばで生きることです。親たちが「アシュドデ
  語」(ネヘミヤ記 13:23)を話せば、子どもたちもアシュドデ語を話します。親たちが神のことばを話せば、子どもたちも神の
  ことばを話します。不信者の世界に育ったけれども救いに与った親たちは努力してなれない外国語としての神のことば
  を話すのですが、救われたその親たちに育てられた子ども達は自国語(ネイティブタング)として神のことばを用い、神
  のことばに生きます。そのようにして代を重ねることが大切なのです。そこに「信仰の継承」の意味合いがあります。子
  どもも個人的に救いと潔めに与らなければならないことは勿論ですが、それに与ること自体、不信者を親に持つ人々よ
  りはるかに容易なのです。
  
  
  
  
   親がやって見せたことを子どもがするのは世の常です。ヨハネの手紙第三において、「あなたは旅人をもてなした」と
  いわれたガイオという人に関することですが、コリントの教会にガイオと言う人がおり、パウロをもてなしました。その子
  がまたガイオと名乗り、旅人をもてなす人となったのでヨハネがほめた、と言えないでしょうか。これは想像に過ぎませ
  んが、筋のとおった連想であると思います。このガイオという人物がだれであるかについて、アダム・クラーク(81)がか
  なりの長文をもって考察をしているにもかかわらず結論は不明でありますが。
  
  
  
  
   「幼少のうちに子どもの意志を服従させなければならない。」という見解に立って、スザンナ・ウェスレー(82)は自分
  の子どもたちを教育し、1732年にジョン・ウェスレーにその見解を書き送りました。以下にその一段落を引用しておき
  ます。
  
  
  
  
  
  
  
  
   子供たちの心を形成するために、まず為されなければならぬことは、わがままを征服して、従順な気性の子供にする
  ことです。知識をさづけるには時間を要するのですから、子供たちの力に応じておもむろに進めて行かねばならないの
  だけれども、わがままを征服することは早速なされなければならぬ事であって、これは早いほどよいのです。時期を外
  さずに矯正しなければ、強情で片意地な子供となって、なかなか征服されなくなるでしょうし、これを征服するには、私が
  子供に対してしたようなきびしい骨折りが必要となるのです。世間を見わたしますと、後になったら破らねばならぬこと
  がはっきり分かりきっている悪いくせに、子供が陥ることを平気でいる人々(これを私は、非道の親といいます)を、親
  切で太っ腹の親だと、考えています。そうです、ある人は馬鹿げた好みをもって、遊戯のようなつもりでその子供たちに
  教えてやらせ、暫くたつと、子供たちがそれをやったからといって、たたくのです。子供は、矯正されれば何時でも服従
  するはずです。これは放任し過ぎて頑固にならぬうちならば、大してむずかしいことではありません。子供のわがままが
  すっかり征服され、両親の威光を敬い恐れるようになれば、子供らしい幾多の大きな愚行と不注意とがあってもそれは
  不問に附してよいのです。ある子供は、見のがされて何の注意もうけず、ある子供はおだやかに叱られる、ということに
  なるのですが、わざと犯した罪でなければ、こらしめられずに、許されなければなりません。尤も、過ちの性質と事情と
  については、説明が必要なのです。
  
  
  
  
   私は、子供たちのわがままを早目に征服することを、主張するのです。これは宗教教育の只一つの強力な、そして合
  理的な基礎だからです。これをしなければ、いくら教えても模範を示しても役に立たないけれども、これを徹底的にする
  時は、両親の理性と信仰とによって、支配することができて、子供たちの悟性が成長し、宗教の原理が心に根ざすよう
  になるのです。
  
  
  
  
   私は、次の問題を書き落とすわけにはゆきません。わがままは凡ての罪と悲惨との根源ですから、もしこれを子供た
  ちの心に育てるならば、彼らの後日の不幸と無宗教とを招くに至ることは確実であり、もしこれを抑圧し制御するなら
  ば、彼らの将来の幸福と敬虔とを増進させることは請け合いです。もし私たちが、宗教とは己が心をなすことでなく、神
  意をなすことであるという事を深く考えるならば、以上のことはより明瞭となります。現世と永遠との幸福にとっての大障
  害はわがままなのですから、これを放任しないということはつまらぬ事ではなく、わがままを否定するということは無益な
  事でもありません。天国も陰府も、ただこの事できまるのです。子供の中のわがままを征服することを学ぶ親は、一つ
  の魂を更新させ、これを救うことで、神とともに働く人なのです。これを放任する親は、悪魔のわざに従事して、宗教を
  実行させなくし、救いを得られなくし、こうして彼の中で働く凡てのことが、子供の心身を永遠の地獄におとしてしまう人
  なのです。
  
  
  
  
  
  
  
  
   これは現在においても大変重要なことであって、もしそれができていないと、前節のスキーの例で言えば、転ぶことに
  耐えられない子どもができるのです。「おとなになれば分かって自分で出来るようになるから、それまで待て。」という教
  育論をぶつ人々がいますが、その声に聴き従ったならきっと失敗します。嬰児と呼ばれる年齢が人格形成におけるも
  っとも大切な時期なのです。夫婦がともにキリスト者であり、夫婦が一致して子どもを養育することに当たらなければ、
  これを果たすことができません。その意味においても、キリスト者青年男女が配偶者を求めるときが、教会にとってきわ
  めて大切なときです。
  
  
  
  
   「神の愛が私たちの心に注がれて」(ローマ 5:5)神の愛が私たち自身の品性となるためには、注がれた神の愛を受け
  止め、それを定着させることのできる人格形成がなされていなければなりません。種である神のことばは「人の心に播
  かれ」(マタイ 13:19)るのですから、心の如何が問われます。人格形成が損なわれていれば、救いも定着しません。さも
  ないと、花火がほんの僅かの時間で終わってしまい後はもとの夜空に戻るように、救いもほんの一時の経験で終わっ
  てしまい元通りの人間に戻ってしまいます。
  
  
  
  
   一方、すべての人が福音に接する前の人格形成で、決定づけられてしまうのかというと、そうではありません。神経験
  はそれ自体が、善き人格の形成をさせるものですから、過去の人格形成がどのようなものであっても、心がけて神経
  験に生き続けるならば、百倍の実を結ぶもの、善かつ忠なる僕よと神に喜んで頂ける者となり得ます。ただ、神の前に
  真摯な信仰を送った親に育てられた人々と、この世の原理に従って歩んだ親たちに育てられた人々では、信仰の出発
  点で既に大きな差があるということです。子供の側から云えば不公平とも見えるその事実には、親達の信仰の報いとい
  う観点から云えば、そこにこそ神の公平があります。
  
  
  
  
   牧師がジェファーソンの牧会と説教者(83)を読んで、"すばらしい、是非このような教会建設をしよう。"と思ったとし
  て、すぐにそのようにできるでしょうか。営々と努力して、自らの力量を向上させなかったなら、できるはずがないので
  す。
  
  
  
  
   日本のキリスト者達が品切れになっている本の中で、どの本を入手したいと思っているのか、いのちのことば社が広く
  増刷希望のアンケートをとったら、W.フィリップ.ケラーの「羊飼いが見た詩篇二十三篇」(84)が、最も希望が多かっ
  たと聞きました。この本が推奨できる良い本であることは間違いありませんが、この本を読んだ人が皆、ただちに羊飼
  いによく従う羊になるのではありません。勿論、読んだ人の方が、読まない人よりも良く歩むであろうことは疑う余地が
  ありません。しかし、この本を読んでも、危険な柵の外に出ていく人も多いにちがいありません。なぜなら、本を読むこと
  には、教会の関係にある人格の交流、戦いといったものがないからです。それは知識に働くものです。
  
  
  
  
   人が何かに上達しようとするとき、その事に熟練している人に誤りを直してもらうことが必要です。外国語を習うときで
  も、スポーツでも、書道や花やお茶あるいはピアノなどの楽器の演奏などの習い事でも、絵や陶芸、彫刻などの芸術の
  ことでも、会社の仕事でも、指導してくれる人である先生や上司などに叱られながらでもそれを続けていると、技量が向
  上し熟練していくことが多くあります。
  
  
  
  
   信仰の世界もまた然りであって、教会という場で訓練されない信者は、自分ではいっぱしなものだと思っているかも知
  れませんが、きっと我が儘な信者になっているにちがいありません。
  
  
  
  
   そこに教会の関係から造りだされるものがあります。「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記 2:18)のです。
  
  
  
  
   教会の関係の中で何が造られるのか、という点についてもう少し考察してみましょう。ただし、それは非常に多岐に渡
  りますから、その実例を二、三挙げておくのみにします。
  
  
  
  
   これは私自身に関する例ですが、私は救いの恵みに与ったとき、私の信仰内容が一足飛びにすばらしいものになっ
  たというのではないのに、すぐに、長い時間、2時間でも半日でも、神の前に坐って祈ることができました。周囲の人を
  観察してみると、ほとんどの方々はそれが出来ないらしいと感じます。ですからどうして、祈りを長くすることができるの
  だろうか。と考えたとき思い当たることがあります。私が4歳から7歳くらいの頃、頻繁に近所のキリスト者達が集まって
  私の家で家庭集会が持たれました。私たち子どももみな一緒に坐っていました。10人、15人と集まったおとな達が順
  番に全員お祈りをするのです。そのお祈りの長いこと。しばしば2時間も目をつむっておとな達のお祈りを聞いていまし
  た。今になって、その益に与っているわけです。数時間神の前に坐るものだけが、5分しか祈らない人の知らない、神
  のご臨在の楽しさに与るのです。
  
  
  
  
   同じ頃、私の家では家族が集まって讃美するときが頻繁にありました。その讃美歌は私の中にしみこんでいるという
  感じで、今に至るまで鼻歌にさえも出てくるのは讃美歌です。
  
  
  
  
   教会の集会に子ども達が静かに坐っていることも、やがて子ども達の信仰生活の中に大きな効果をもたらすもので
  す。
  
  
  
  
   子ども達が教会の中においてよい交わりの場が与えられているなら、教会を愛する気風を持つにいたります。
  
  
  
  
   教会の関係の中で造られるもの、その中心は「神を畏れる」ことです。それは教会を愛することにつながり、集会を慕
  うことにつながり、聴くことのできる人間になることにつながり、聖書のことばに従うことにつながります。何か困難に遭
  遇したとき神を思うことができるか否かは、神を畏れるということが、魂のうちに形成されているか否かに関わっていま
  す。罪を犯したとき、神の刑罰を恐れることもそこにあります。(つづく)
  
  
  
  
  (仙台聖泉キリスト教会会員)
  
  
  
  
  
  
  
  
  文献:
  
  
  
  
  (81)アダム・クラーク、ヨハネ第1・第2・第3の手紙注解書、C.L.C.暮しの光社、1977、p.192
  
  
  
  
  
  
  
  
  (82)スザンナ・ウェスレー、ジョン・ウェスレー、ウェスレイ日記、山口徳夫訳、    イムマヌエル綜合伝道団、198
  4、p.318 から
  
  
  
  
  
  
  
  
  (83)チャールズ・E・ジェファソン、牧会と説教者(教会の建設)、後藤光三訳、いのちのことば社、一九七七
  
  
  
  
  
  
  
  
  (84)W・フィリップ・ケラー、羊飼いが見た詩篇二十三篇、舟喜順一訳、いのちのことば社、5刷、1993
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  