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   質問してみよう「聖書を学ぶ会」−報告−72


                      

                              山田 行


「「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21:25)




  毎月休まず行われ続けている「聖書を学ぶ会」――今回は、士師記の最後、第21章の学びでした。
 何度も何度も神に背き、繰り返し悪事を行ったイスラエルの民、上記の御言葉のように、めいめいが自分の正しいと 見えること、と言うと聞こえはいいですが、実態は自分の好き勝手に生き続けた結果でありました。牧師先生より「初め は小さな歪みだったものが気づかないうちに広がり、どんどんと神から離れてしまうことがあります。それは自分だけに 留まらず多くの人々を巻き込むものであり、腐敗が広がるように、人の悪事と罪深さが私たちを飲み込んでしまうので す。小さな何気ない選択の積み重ねが、最後には信仰なのか自分の我儘なのか、見分けがつかないほどになってしま うことを本気で恐れなければいけません」と語られました。日々の私たちの生活は次々と色々な決断を迫られ、自分の 考えやその時の感情、人がどう見るか、など人間的な思いだけで物事を決定し、好きなように行動していくことの連続 です。そこに神の目を入れないことの故に、少しずつ価値観が狂い始めて行き、気づいた時には神不在に陥ってしまっ ているという怖さを感じます。
 また、私たちは自分一人で生きているのではなく、必ず周りに関わっている人々がおり、自分の何気ない選択によっ てそのような人々が影響されていくことを思う時、特に愛する子供たちが、そのような私たちの選択の影響によって知ら ず知らずのうちに道に迷うことになりはしないか、と思わされます。そうならないために、自らの選択が本当に信仰によ ってなされているか、一つ一つ牧会者を通して検証していただくことが必要であると思わされました。
 この「聖書を学ぶ会」神は毎月とても良い集会を開いてくださっています。
集会では聖書の御言葉について質問がなされますが、牧師先生からはただ単に御言葉についての解説がなされるの ではなく、それがその質問者の信仰の現場にとってどのような意味をなすものなのか、が語られます。それはまな板の 上の鯉のように、自分自身をさらけ出す怖さがありますが、牧師先生に自分自身を分析していただけるチャンスです。 だから私は自分の子供たちに、まな板に乗りなさいと勧めます。それぞれの質問を通して先生はその人に必要なアド バイスをしてくださり、その人の傾向性や弱いところを指摘してくださいます。時には皆の前なので恥ずかしいなと思っ たり、触れてほしくないところを指摘されることもあります。しかし先生は、牧会者としての使命に立ち、愛を持ってきち んとわかるように導こうとして下さるのです。それに対して私たちも心からへりくだって受け入れる時、自分では気づか なかったところに信仰の光が当てられ、小さくとも確かな信仰の歩みが与えられるのです。
 私も子供たちにばかり言うのではなく、自分自身も潔くまな板に乗り続け、神の干渉を頂きながらこれからも従順に歩 んでいきたいと決意する時が与えられました。
 聖書を学ぶ会では、いつも沢山の方々が積極的に質問しておられます。それは神を侮ることなく、正直に自分を神の 前に置き続ける大切な姿勢だと思いました。
 (仙台聖泉キリスト教会会員)





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