論説
− 神に近づく (21) −
「イエスは言われた。・・「・・聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、
ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」」(使徒 1:7-8)
前回、ヘテ人ウリヤの全生涯はダビデのために用いられたと述べましたが、ヘテ人ウリヤの生涯にイエス・キリストの
生涯を連想します。ウリヤがダビデのために命を懸けて兵卒をつとめたように、イエスは、ユダヤ人にその全生涯を捧
げました。そしてその愛したユダヤ人に殺されました。ウリヤに直接手を下したのはアモン人でしたが、ダビデが殺した
のです。同様にイエスに直接手を下したのはローマ人でしたが、間違いなくユダヤ人に殺されたのです。ウリヤの死
は、神がダビデをお取り扱いになり、ダビデが潔く生きるものと変えるために用いられましたが(ウリヤでなく神がなさっ
たことです)、イエスの死はユダヤ人が、潔い神の民に変えられるために用いられました。私たちはユダヤ人の食卓か
らこぼれ落ちるパンくずに与っているのです。パンくずでさえもこんなに素晴らしいのですから、その食卓の素晴らしさ
はいかばかりでしょうか。
こうしてダビデは神の救いと潔めの証人となりました。イエスの救いの証人となることが、神に近づいた人に対する神
の期待であることは間違いありません。
ヘブル人への手紙の記者はこう述べています。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行
いからの回心、神に対する信仰、 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基
礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。 」(ヘブル 6:1-2)
これはどういう事柄に対する証人となるのかを暗示しています。証人は、いつまでも救いの入り口のことだけにとどま
っていないようにと勧めているのであって、成熟の過程にどのようなことがあり、証人に対して神は何をもたらしたか、
その内容を明らかにするために立つことが求められているのです。もちろん救いの入り口は大切です。私はクリスチャ
ンであると主張する多くの人々が救いの入り口すら通り抜けていない現実を目のあたりにしてきました。しかし、今は、
救いの入り口を既に通ったことを当然のこととして、次のステップを考えましょう。
「成熟を目ざして進む」とき、私たちの何が変わるのでしょうか。それは私たちの「心の中」にあります。
古くから、イスラエルの出エジプトからカナンの地に定住するまでの歴史が、キリストの救いを表していると言われてき
ましたが、大変よく当てはまると思います。大切なことは、エジプトもシナイの荒野もカナンの地もすべて一人の人の心
の中を示していることです。
エジプトはこの世です。そこにいたとき私たちの心の中は、利己心がそのこころの首座を占め、高慢、貪欲、肉欲、と
あらゆる忌まわしいものに満ちていて、闇の中を歩み、神に敵対する者でした。この世に生きているとき、善行すらも利
己心の範囲を超えることはできませんでした。
海が分かれてあらわれた地を通り、紅海をわたったことは、救いの経験に当てはまります。それは奇跡です。イエス・
キリストの十字架の贖いによって神がそれをなしてくださるのです。そこで私たちは罪の赦しと新生のいのちに与りまし
た。
それから入っていった地は荒野です。荒野はぐるぐる回るだけで、「成熟を目指して進む」ことにはほど遠いところで
す。そのまま荒野にいたならば、長い月日が経ったのちに、少しも変わらない自分をみいだすことでしょう。成長し、成
熟し、よい果を結ぶものとなるためには、どうしてもカナンの地に入らなければなりません。
カナンの地の入り口においても、神は奇跡をなさいました、雪解け水で縁まで川幅いっぱいになって流れているヨル
ダン川の流れを止め、神は乾いた地をわたらせなさいました。この奇跡が示していることは、私たちの古い人が死ん
で、・・キリストと共に十字架に死に、キリストと共に生きる・・聖霊に満たされて生きることです。
バプテスマのヨハネが人々にイエスを紹介して言った最初のことばが、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けまし
たが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ 1:8)でした。
イエスが十字架の贖いを完成され、天に帰られ、聖霊をお遣わしになりましたから、今はいつでもそれをうけることがで
きるのです。しかし、すべての人は、エジプトにその生涯がはじまり、紅海をわたることも、荒野を歩むことも、ヨルダン
川を渡ることも全部しなければカナンの地に入れません。そしてカナンに入ると、成熟を目指して歩むことができます。
といいましても、それは可能性としてあるというだけで、神に対して従順にあゆまなければ、エリコのあたりでいつまでも
うろうろしていることになります。 カナンの地は戦いとる地でした。信仰の生涯のカナンの地も戦って獲得するのです。
筆者の例を証しするならば、ヨルダン川をわたる経験は、神がそれを離しなさいとお命じになっているこの世のものか
ら離れることができないでいた、不従順であったことを悔い改め、神のくださるもので満足します、と神に訴えたとき、神
は私をそれから解放してくださり、聖霊に満たしてくださいました。その後、長くキリストの平和のうちをあゆんできました
が、神のお取り扱いがありました。キリストの証人になりなさいとのご命令に応えるために述べますが、私には天に帰る
までそっと誰にも言わずにおきたいものがあると気づかさせられたことがありました。テレビの成人向けの番組を見て
いるうちに、それをまた見たくなるのでした。神が「それはこの世のものです」とご指摘になりましたので、見なくなりまし
たが、私はそれを「律法として」守っていることが分かりました。同時にそれは、ながく私の内にある好みであるとわかり
ました。そのようなものにこころを許してきたことを悔い改め、律法として守るのではなく、いのちのみ霊の原理による解
放が与えられるように神に願い求めました。
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血
はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT 1:7)というみことばのとおりに、神は私を解放し、好みそのものを変
えてくださったので、そのようなものから離れていることができるようになりました。みたいと思わなくなりましたから、見
てはいけませんという律法も必要なくなりました。
神のお取り扱い、その最初のステップは、自分の内にある、ただされなければならないものを認識することです。光の
うちを歩むならば、そこに神の手を入れていただき自分を変えていただくことができます。その過程には、ダビデが予
言者ナタンの導きを受けたように、牧師の導きをいただくことが必要である場合が多いことでしょう。
イエス・キリストは、「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」(エペソ 5:27)に、私達の変貌
のため私たちとともに歩み続けてくださいます。
律法だから仕方がないといって神の命令を守ることはカナン人を服従させて生活するようなものです。それは自分が
「服従させる」のではなく、神に「聖絶」していただかなければならないのです。
同労者ホームページを開くと、日本福音主義神学会のホームページへのリンクがあって、そこから入り、過去の論文
を見ることができます。2006年に「霊性」をテーマに論文が発表されました。その中である先生が、聖化について触
れ、「義認と聖化をめぐる問題点の第一は、聖化をへたに強調すると、律法主義や自己義認に陥るということである。」
と述べておられます。それで私は一言申し添えたいと思います。聖化はその入り口も、その後の歩みもすべて、「恩寵
による」のであって、律法を守ることに聖化があるのではなく、「律法からの解放」が聖化であるのです。ですからそのよ
うな懸念にはおよびません。
「教会の建設!」と叫ばれてきましたが、聖く傷のない教会は、私たちひとりびとりのこころの中に建つのであって、自
分の外のなにかではないことを深くこころにとめておきましょう。繰り返し述べていますが、神がダビデに彼の実態をわ
からせなさったように、私たちにも自分の実態をわからせ、それをキリストの福音に相応しい姿に変えてくださいますよ
うに。
神に近づくことをよしとする皆さん、私たちは神のお取り扱いに身をゆだねて、是非とも「内なる人は日々新た」にさ
れ、「栄光から栄光へと進む」信仰生活をさせていただこうではありませんか。