聖書研究
結実の考察(第38回)
野澤 睦雄
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、
あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 15:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ
15:8)
<第7章 教会と聖潔>
前回「教会の関係のなかで何がつくられるか」という項目をとりあげました。
つづいて、そのつくる方法を論じます。
以下に本文を引用します。
・・・・・・
7.4) その方法…人格の交流
牧師が信徒の中に、夫が妻の中に、親が子どもの中に、どのようにして神を畏れる気風を造ることができるのでしょう
か。
信じて「方法」を行う、それが鍵です。方法を行う事自体が信仰です。「アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげ
た」(ヤコブ 2:21)ことが彼の信仰でした。
信じて、方法を行うという事の内容を考察します。
緒論において述べたように、メゾジストということばは「几帳面派」と言わず、「方法論者」というべきでした。几帳面と
いうことばは、メソジズムの本質を見失わせるものです。ここにいう「方法論とは、恩寵の手段(84)論の拡張です。」と
いうと理解しやすいかも知れません。では「方法論」とはどういうことか、例をあげて説明します。
私は救いの恵みに与る直前のこと、礼拝説教で「あなたがたは、神に近づく道か、神から遠ざかる道か、いずれか一
方しか選ぶことが出来ません。中間はないのです。」と語られたことを聞き、私も神に近づく道を行きたい、と思いまし
た。そこで考えて、自分ができる神に近づく道を歩もうと思いました。そして、神に近づく道は教会の集会に出席するこ
とであると思いました。それから38年経つ今に至るまでそれを実行していますが、集会出席を確保するためには、工
夫と戦いが必要でした。教会の集会に出席するために実行することは、「教会の近くに住む」ことが一番です。ですか
ら、前にも述べたように、結婚したとき自分の収入にみあった家賃で、教会の近くに住もうとしたら、六畳一間になって
しまいました。今にして思えば、よくそこに来てくれる人がいたものだ、ということにもなりますが、その時は、結婚の相
手に有無を言わさず実行していました。その後、交通手段である自動車を確保してから、郊外のアパートに引っ越しま
した。
方法論とは、信仰生活のなかに起きてくる様々のことがらに、このように対処することです。
東京の荒川聖泉キリスト教会の故山本岩次郎牧師が、ある教会の役員研修会に講師として招かれて話した中に、次
のような内容のことがあります。
「私は私の教会の信者どうしが、直接金の貸し借りをする事をさせません。なぜならば、お金を借りた人の立場は下
になり、お金を貸した人の立場は上になります。ですから金の貸し借りを許しておくと、教会の信者の中に上下関係が
できてしまいます。こちらの信者は偉く、あちらの信者はそのひとにぺこぺこ頭をさげる、そんなことがキリストの体であ
る教会の中に起きてよいでしょうか。それはあってはならないことです。ですから、ある信者がお金に余裕があり、別な
信者がお金に困窮しているという事態が起きてきたら、牧師である私が余裕のある信者にお金を融通して貰い、融通し
た信者はそれが何に使われるか知らず、困窮している信者がそのお金がどこから出てきたか分からないままに使える
ようにします。」
ここに牧師の牧会上の工夫の一例があります。確かにそれによって、富んでいる信者が教会の中で問題を起こさず
に兄弟への愛を行うことができます。
スザンナ・ウェスレーは子ども意志を服従させるために、子どもを打ちなさいといいます。子どもを育てるとき、親があ
る規制を定め、それに反したとき子どもを打つという工夫が必要です。それによって子どもは服従を身につけ、子ども
の中にまっすぐな人格が形成されるにいたります。「アメとムチ」なとど言うことではありません。許されていることは子ど
もの望みをできるだけかなえることによって愛を現しますが、許されないことには、愛して子を打つのです。仙台聖泉キ
リスト教会の山本嘉納牧師の話されたことに、こういうことがあります。「守(子供さんの名)がお尻をぶたなければなら
ないことをしたとき、本人は何とかお尻を私にぶたれないで済むようにと、『ぶたないでくれ。』と頼みますが、悪いことを
したときには、お尻をぶたれなければならないのだ。お父さんは、もしもお前が悪いことをしたとき、お前をぶたないとお
前のお父さんでいられなくなるのだ。だから、もしお尻をぶたれたくないなら、お父さんの家にいないでよそにいきなさ
い。と言います。すると、守は、お父さんの家に居たいから、と自分でお尻を出して打たれる…」と。実際にお尻を打つ
のですが、お尻をぶたれてもお父さんの家にいたい、お父さんといたいという子供さんの心に、お父さんとして深い感動
と愛を子供さんに対して持つことがうかがわれました。
もしも成人に達した子供が、どうしても敬虔に相応しい生き方に従わない場合、「もしいくたびも試みてもなお彼等が
論議や勧告に従わないことがわかったならば、形式を離れて、彼らをあなたの家から去らせることが、あなたの責任で
ある。」とのウェスレーの説教(85)に従わなければなりません。
仙台聖泉キリスト教会において、会堂を建て直すとき、礼拝中に子どもがいる部屋を備えた方がよいか議論されまし
た。結論としてそれはやめることになりました。赤ちゃんも子どもたちも、教会の集会に一緒に出席し、静かに集会をと
もに過ごすこと、それを実行させることにしました。それは、特に母親を中心とする親たちに、その子どもが小さいとき、
その子を静かにさせる戦いをもたらします。集会中に騒ぐ子どもは親が打たなければなりません。それは、現在も続け
られていますし、この教会の親たちにも子どもたちにも大変有益であるように見受けられます。
ある教会に出席する機会がありましたが、その教会では、なんと礼拝中に子供たちが会堂の屋外で遊んでいるでは
ありませんか。そして、祝祷のときだけ中に入ってきて前列の席に並びました。そんな礼拝をしていて、子どもたちの中
に神を畏れる気風を造れるでしょうか。
文献:
(84)W・フィリップ・ケラー、羊飼いが見た詩篇二十三篇、舟喜順一訳、いのちのことば社、5刷、1993
(85)ジョン・ウェスレー、標準説教第4巻「恩寵の手段」、河村襄他訳、
イムマヌエル綜合伝道団出版局、1947