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   質問してみよう「聖書を学ぶ会」−報告−73


                      

                              山本 咲

 今回の聖書学ぶ会は冒頭にルツ記1章が開かれ学びが進められました。この箇所を通し牧師はナオミとその二人の 嫁、ルツとオルパとの間にあった出来事を取り上げ、「信仰と覚悟」について話されました。
 ナオミと二人の嫁の間には愛に満ちた関わり合いがありました。それはナオミがユダの地へ戻ろうとした際に共に行 こうとしていたにも関わらず途中で二人を帰らせようとしたことや、二人が別れを切り出された時にその言葉を否定し、 共に行こうとしたこと、涙を流していることからわかります。ナオミはルツともオルパともその関係を確かに築いていたの です。しかし二人の嫁の先はきっぱりと別れました。ナオミとともに行くか行かないかです。牧師はこの二人の違いは 「覚悟」にあると語られました。牧師は「ルツは何があってもナオミから離れないということをナオミが共に帰ろうと言った 時点で決めていた。だからこそ彼女はナオミに説得されようとも揺らがず、その意志を貫き通すことができた」と語って います。そして「私たちはルツのように神を信仰する覚悟をもっていなければならない。なぜならその覚悟は心を支え、 日々の選択と決定の中に揺すぶられることはあろうとも確かに倒れないでいられる真に根付いた信仰を作り上げるこ とができるからです。」と話をまとめられました。
この学びを通し、私たちは世との生活の中で確かに翻弄されることではありますが、一心に神を愛し、信仰し続けるこ とを覚悟したものには確かにその先を開いていく力と助けが与えられるのだと学ぶことができ感謝致しました。
 今回も多くの質問がなされましたが、その中から心に留まったものを1つ取り上げたいと思います。質問はダビデの犯 した姦淫の罪に関してなされ、この一連の話の流れをもう一度様々な視点で考える機会となりました。
 牧師は以前山本光明牧師が説教の中で語られたウリヤという人物に対する捉え方を話しておられました。それは、 「ウリヤはダビデの考えていること、その犯した罪というものを知っていた」という捉え方です。ダビデは自分の罪を隠す ためにバテシェバの夫であったウリヤを戦場から呼び戻します。しかしウリヤはダビデの思惑通りには動かず、更には ダビデへ意見を述べます。その言葉はダビデの罪を責めるものではありませんでしたが、言葉の裏を読み解いてみる ならばダビデの罪の悔い改めを願い、一心に訴えているのだと牧師は語るのです。このあとウリヤは戦場でダビデの 命令によって殺されてしまいます。しかし彼はそのことすらも受け入れたのです。牧師はここにウリヤという人物のダビ デに対する愛と忠義を語ります。神はウリヤにその命を捧げることを求め、ウリヤはそれに応えたというのです。この 後、ダビデは神に遣わされたナタンを通し罪の悔い改めを迫られ、もう一度神へ近づく機会が与えられていきます。ダ ビデは神の罰を受けることではありますが確かにその身元に帰ることができたのです。
 この話がなされたとき私は人間の奥底にある罪の恐ろしさと同時にそこから悔い改め、救いへと導かれるには愛が なければ成立しないということを改めて感じ、考えさせられました。
日々の中で私たちは罪という存在に注意していくことが求められています。しかしこのダビデのように時には自らが犯し ている罪の重さにすら気づかないで、言い訳を重ねている時があります。私も最近そのようなことがあり、母が指摘す るまでそのことに気がつきませんでした。私のしていた行動は私のために日々祈り、愛してくれている人たちをいかに 軽んじたものであったのか、母は私に罪を突きつけました。そこで始めて私は自らの愚かしさに気づかされたのです。
私にはウリヤのように真実に愛してくれる人や、ナタンのように罪を思い起こさせる人がいます。そのように神がたくさ んの方を私のそばに用意してくださったのだと思います。私はその事実に感謝すると共に、私も誰かのウリヤやナタン になることを神に遣わされる時が来るかも知れないことを覚え、真実に愛を貫き、自らを捧げることができるものとなっ ていきたいと思いました。
聖書を学ぶ会が今月も変わらず持たれ、良き学びの時となりましたことを感謝致します。
 (仙台聖泉キリスト教会会員)

 




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