聖書研究
結実の考察(第39回)
野澤 睦雄
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、
あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 15:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ
15:8)
本章の最後に、本書の全体のテーマである結実の教会との関係について短く触れています。
以下に本文を引用します。
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7.5) 教会と結実
第5章、救いの経綸において、人間が救われ、潔められて達成しなければならないことは、結実であることを述べま
した。聖潔の問題における教会の重要性はそれが、「結実の場」であるからです。進歩のある聖潔は教会における歩
みなしにはあり得ません。「アブラハムがイサクを祭壇にささげ」(ヤコブ 2:21)たとき、アブラハムはその信仰が実現し
た、と認められたように、聖潔は、実際の生活の中に神の潔さを行いによって現したとき、「あなたの潔さ」が実現したと
されます。
その場は教会の関係にある人との間にのみあります。前にも述べていますが、何か困ったことがある兄弟がいたとし
ても、神の導き無しにその兄弟に何かをしようとしてはいけないのです。
救いの経綸の章において、実とは「品性」ではなく「行い」であることを述べました。これは、聖霊の実を結ぶ上におい
て、大切なことなのです。
聖潔は「聖霊の満たし」の他に、人間の内に以下の3つのことをもたらすものです。
@聖絶、汚れの除去(純潔化)
A献納(神の所有となること)
B神の聖の付与(神の性質、義、愛が潔められた人の品性として分与される)
これらは救いの恵みと同様に、"十字架の贖いによって"信じた者に"行いなしに"与えられるものです。
「聖潔」は、「救い」と同様に、信仰によって行いなしに与えられます。
「品性」は、この神の「聖」の一部として、聖潔の経験と共に与えられるのです。
結実は、私たちに"行いなしに"与えられるものではなく、私たちがどのように"行う"かの問題です。
善い実を結ぶとさらに豊に善い品性が与えられます。(マタイ 25:28、ヨハネ 15:2)
"愛する"、"忍耐する"、といったことを行うことが結実です。これらを行うには、「愛を要する相手」、「事態」、と「その
事態に対処せよとの"神からの任命"」が必要であって、その相手が教会の関係にある人です。
私たちが当面する事態は、個別の問題になりますが、教会の中に取り組むべき使命が置かれています。私たちがそ
の使命に取り組むとき、教会が建て上げられるのです。
私たちが信仰によって生きていこうとするとき、事を進めていかなければならない事態、あるいは困難と感じる様々の
事態に当面しますが、それらの事態をどのようなものと考えるかは、信仰生活をしていく上において大切です。そして、
信仰の原理でことに当たらなければなりません。キリストを信じているし、教会にも来ている、しかし生活を行っている根
本にあるものはこの世の人と同じ、という人もいますし、あるときには信仰の原理でまたあるときには世の原理でことに
当たる揺れ動く人もいます。
信仰によって歩んでもなお、神は私たちの歩みの中に課題を置かれます。課題は神が私たちの結実のために備えら
れた場ですから神の助けを得て私たちはそこで善き実を結ぶことを考えなければなりません。
善き実を結ぶと更に多くの愛、よい品性を与えられます。前にも述べたようにそれが成長です。使命を与えられてそ
れに取り組むと、そこにまた信仰の課題が出てきます。それはその使命に与らなかった人には与えられないものであっ
て、さらに多くの聖霊の実を結ばせて頂くに至るものです。信仰の課題は私たちに真剣な祈りをもたらします。それで、
私たちは信仰によって生きることができるのです。
私たちは摂理によって歩む道筋の中に、ひとりひとり個別の課題、使命が与えられます。それぞれが、その自分の使
命を果たす中に潔めが保たれ、潔めに進むことができます。
その使命に生きることが「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」(コロサイ 1:24)ことであり、それに身を捧げる者が
あるとき、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ 5:27)が建て上げられるのです。