聖書研究  
  
  
  
  
                       結実の考察(第40回)
  
  
  
  
  
  
  
  
                            野澤 睦雄
  
  
  
  
  
  
  
  
  「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、
  あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」(ヨハネ 15:16)
  
  
  
  
  
  
  
  
  「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ 
  15:8)
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  <第8章 結  語 >
  
  
  
  
  (本書の締めくくりの部分です。そのまま掲載いたします。)
  
  
  
  
  
  
  
  
   本書において、以下の内容の論証につとめました。
  
  
  
  
  ・人間がおかれているこの世界はどのよう
  
  
  
  
   なものか
  
  
  
  
  ・人間とはどのようなものか、人間の構造
  
  
  
  
   と救いの必要な理由
  
  
  
  
  ・神が備えられている世界の歴史のプログ
  
  
  
  
   ラムとその時の流れの中における人間
  
  
  
  
   の救拯のプログラムはどのようなもの
  
  
  
  
   か
  
  
  
  
  ・人間の救拯に聖霊はどのように関わって
  
  
  
  
   いるか
  
  
  
  
  ・人間の救拯に教会がどのように関わって
  
  
  
  
   いるか
  
  
  
  
  
  
  
  
   神が人間のために備えられた救いと潔めは、イエス・キリストの十字架の贖いを根拠に、価なしに聖霊によって人間
  に与えられますが、それを与えられた人間には、聖霊の実を結ぶことが求められています。
  
  
  
  
   その聖霊の実を結ぶ場がすなわち教会であって、神から親が子供を預けられて、その子どもの信仰、人格の形成に
  取り組むことが、親と子双方に与えられている教会の関係であることを示しました。同様に、夫と妻の間に、牧師と信徒
  の間に、信仰と人格の形成、聖徒の交わりがあります。
  
  
  
  
   神はその「人と人との間の関係」の中で働かれます。その関係の中において、神はご自身の代務者をおかれます。そ
  れが新約の予言者であり、祭司であり、王です。
  
  
  
  
   救われた信者のところに未だ救われていない人がやってきて、罪を告白してイエス・キリストを信じるならその人は必
  ず救われます。潔められた人のところに、未だ潔めに与っていない人がやってきて、すべてを神に献げて祈り「イエス
  の血は全ての罪から…潔める」(ヨハネT 1:7)と信じるならば、その人は必ず潔められます。
  
  
  
  
   神はご自身が遣わした人を重んじなさいます。そこに、遣わされた人に委ねられた神の権威があります。
  
  
  
  
   個人宗教は、教会の宗教に高められなければなりません。そのようにして建てられた教会こそ信仰の奥義です。
  
  
  
  
   神の愛は、確かに聖霊によって人間の心のうちに注がれますが、教会の関係の中でそれを用いて現わさないと、地
  の下に一タラントを埋めておいた信者になります。私たちは、与えられた神の愛を、タラントとして用い、「良い忠実なし
  もべだ。」(マタイ  215:21)とほめられたいものです。
  
  
  
  
   潔められて、そのあとどうするのか?その答えがここにあります。潔められたなら、次に聖霊の実を結ぶのです。聖
  霊の実を結ぶ場が教会であって、教会の建設こそが私たちに与えられている課題です。そこにキリスト者の成長と喜び
  があります。
  
  
  
  
   潔めは「分かった。」というだけのものではありません。実際に聖くなければならないのです。愛はすばらしいとわかっ
  ても、愛がただちに行えるものではありません。それには訓練が必要です。教会はその訓練を次の世代の子らに行い
  ます。するとその子どもたちは、親よりもより完全に愛をあらわすことのできるものとなることが期待できます。本文中に
  述べたように、そこに「信仰の継承」の意味合いがあります。
  
  
  
  
   神から褒めて頂けるものは結実です。救いも聖潔も、イエス・キリストの贖いによって無償で人間に与えられるもので
  すから、救われること、潔められることは、天国に入る最低の条件であって、称賛に値するものではありません。(救い
  に与った人が称賛されるべきものではなく、ただイエス・キリストのみが称賛されるべき筋合いのものです。)
  
  
  
  
   もしも、私たちがカナンの地に入っても、カナンの全土をとらずにエリコのあたりでうろうろしながら生涯を終えてしまっ
  たら残念なことです。教会という場の中で結実と成長を繰り返すこと、そこにカナン領有の型に示されている内容の本
  体があります。
  
  
  
  
   ルターは「救いの教理」を明らかにしました。ジョン・ウェスレーは「聖潔の教理」を明らかにしました。次に来るものは
  「結実の教理」であり、これらすべてに関わるものとして「教会の教理」があります。
  
  
  
  
   聖潔は、結実において「神の栄光」を顕わします。
  
  
  
  
   「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ 15:12)
  
  
  
  
  「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。…人がわたしにとどまり、わたしもその人にと
  どまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ 15:2-5)
  
  
  
  
  「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなた方にも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し
  加えてくださいます。」(コリントU 9:10)
  
  
  
  
  (つづく)
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  