巻頭言         − ひとりのおばあさんを通して−
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
                         森田 初実
  
  
  
  
  
  
  
  
  「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか
  をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ 2:2)
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
   今年のこの御言葉が与えられて、早半年近くになります。この半年の間には私たちの家庭で長く祈り続けてきた課題が神の祝福によって解決
  し、感謝をささげました。それは長男の結婚が与えられたこと、次男の就職。私は神から与えられた大いなる祝福であることを覚え、その陰では
  教会の先生方をはじめ、兄弟姉妹方が祈り関わって下さったことに心から感謝致します。
  
  
  
  
  
   感謝を覚えつつ日々の歩みの中に、私は自分の至らなさや弱さ又傲慢な心を示されます。 私は仕事で介護スタッフをしています。先日、部屋
  から「看護婦さーん、看護婦さーん」と呼ぶ、おばあさんの声が聞こえてきました。この方はいつもスタッフを呼んでは、「寝返りしてちょうだい」「部
  屋がまぶしいからカーテンをしてちょうだい」と言われることがほとんどで、時々「トイレに行きたい」と言われてお連れします。
  
  
  
  
  
  
  
  
  1時間の間に何回か呼ばれる中で、スタッフの間では厄介者とされているところがありました。ある時にあのおばあさんの声が聞こえてきまし
  た。何度かスタッフを呼んでいるのですが私はすぐにとんで行くことをせずに、今、自分のしている仕事を優先していました。自分のしていた仕事
  を終えてふとそのおばあさんの部屋の前をとおると、ベッドのまわりのカーテンをしめて何人かのスタッフがいました。私はびっくりして様子を見
  に行くと、おばあさんがのベッドが汚れてしまっていました。おばあさんはおなかが痛くなりトイレに行きたく、スタッフを呼んでいました。ところが
  間に合わず、ベッドが汚れてしまったのです。
  
  
  
  
  
  
  
  
  私は心から反省しました。私はおばさんが呼んでいたことに気がついていましたが、気づいていながら声をかけずに自分のしていたことを優先し
  ました。それも私のしていた仕事は後からでもできることでした。私は「どうせ、また」というような思いがあり、そんなに私は心の中で「急ぐことで
  もないだろうから少しぐらい大丈夫だろう」と思いました。私は後でもできる仕事をしておばあさんの声を優先せず、無視してしまいました。いつで
  も、いつも、おばあさんに呼ばれてとんでいけるような状況ではありません。しかし、忙しい中でも、「もう少しお待ち下さいね」と声をかけたりでき
  ます。私のした心の思いが私はおばあさんに対して申し訳なかったと後悔しました。それは神に対して私の心はつながりました。日常のことです
  が、自分の心の中を見せられた思いになりました。私はかつて自分勝手な心で自分の思いどおりのことをし続けて、神をまた私のまわりの人々
  を悲しませた者でした。それが私の罪であることを示されてそこから救われました。神があわれみのゆえに、私をその罪深いところから引き上げ
  て下さったはずなのに、その「少しくらいなら大丈夫だろう」「どうせ、またさ」という自分勝手な思いで優先すべきことがくるってしまいました。私は
  おばあさんの汚れたシーツを片づけながら涙があふれ、とまりませんでした。私はおばあさんのところへいって「すぐにきてあげられなくてごめん
  なさい。声がきこえていたのに」とお話ししてあやまりました。おばあさんは「大丈夫よ。あなただって忙しいのに手間をかけて申し訳ないね」と笑
  顔で私に話してくれました。
  
  
  
  
  
  
  
  
   私はこのおばあさんを通して私の心根をしめされました。日常生活の中でしめされる事を、神がそれを通して一つ一つ示して下さっているのだ
  ということを意識するときに、神が私の悪い心根を変えてくださるのであることを知りました。そして私のような者がたくさんの恵みを神からいただ
  いています。恵みを覚えるならば私は神の前に栄光を帰したいと、そのような者になれるようにして下さいと祈ります。
  
  
  
  
  
  
  
  
   礼拝のメッセージの中で、信仰、恩寵、行いとアブラハムを通して語られました。恵みを多くいただいて、感謝する私ですが、感謝と同時に神の
  前に私はその感謝を表すために、日々の行いを神に喜んでいただきたいと思うことであります。それは神との関わりで一つ一つ大切にしていくこ
  とを示されます。
  
  
  
  
  
  
  
  
  「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょ
  う。 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 また、だれが、まず主に与えて報いを
  受けるのですか。 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますよ
  うに。アーメン。」(ローマ 11:33-36)
  
  
  
  
  
  
  
  
   私はおばあさんの声が聞こえると飛んでいけるときにはすぐいきます。すぐに部屋によれない時にはまわりのスタッフにお願いしたり、少々お
  待ち下さいね、と声かけします。(仙台聖泉キリスト教会会員)
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  