論説

− 信じたとき聖霊を受けましたか −

「信じたとき、聖霊を受けましたか。」(使途 19:2)
 今年の教会暦では6月4日(日)がペンテコステに当たっています。ペンテコステは信者が聖霊を受けることのできる 時代が到来したことを示すできごとでした。

 過去のこのコラムに、同じみことばを取り上げて繰り返し述べてきました。

 ここには、皆さんがまだそれに与っていないかのようなトーンで書きますが、すでにそれに与かり、聖霊とともに歩んで おられるかたがたも当然おられるでしょう。その方々には、「我が意を得たり!!」という感じで受け止めていただけれ ばと思います。

 イエスは弟子たちに、一切のことを聖霊を受けてから始めるようにとお命じになり、事実弟子たちは聖霊を受けてから 福音の働きに着手しました。聖霊を受けるということは、キリストを信じる者すべて、教会でもまたひとりの信者にとって も、イエスの弟子たちがそうであったと全く同じ重要事です。

 そのような重要事であるにもかかわらず、なぜか、これがなおざりにされているように感じます。

 使徒の働きに、アポロという人物が記載されています。冒頭の質問をしたのは、パウロであって、アポロが宣教したあ と、エペソに言って尋ねたことばです。

アポロについてその少し前にこう書かれています。

「さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、 主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らな かった。」

(使徒 18:24-25)

アポロは聖書を詳しく知っており、イエスのことを正確に語ることにできる人でした。皆さんもそうではないでしょうか。聖 書をよく知り、イエスを正確に語れる。

 アポロはヨハネのバプテスマしか知らなかったと書いてあり、私はイエスの名によってバプテスマを受けたからアポロ とは違うとお考えではありませんか。もし皆さんが「聖霊を受けていない」ならば、このアポロと同じ位置にいます。それ は「悔い改めのバプテスマ」「水のバプテスマ」といわれるもので、イエスの宣教のとき弟子たちが授けていたものです。 それによって、罪が赦されて義と認められ、新生のいのちが与えられます。

 アポロが知っていたのはそこまででしたが、彼の働きでパウロがエペソにきたとき新生の恵みを受けていた信者たち がそこにいました。

彼は、平信徒である。プリスキラとアクラ夫婦に「聖霊を受けることを」教えられました。イエスのバプテスマは「聖霊と火 のバプテスマです。」

「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に 説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎 してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。 彼 は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」(使徒  18:26-28)

こうしてアポロは真の働き人になり、彼の聖書の知識は豊かな働きをしたことをうかがい知ることができます。

 もし皆さんが罪の赦しと新生のいのちの恵みにとどまり、聖霊を受けていないとしたらその原因はどこにあるのでしょ うか。はじめに考えられることは、皆さんがこの「信じたとき聖霊を受けましたか?」

という質問に向き合おうとしないことです。

それは、見て見ぬふりをしてそこを去るというよきサマリヤ人の話の、祭司とレビ人の姿に似ています。目の前にあるこ とに対峙しないのです。それで、「私も聖霊を受けたい」という求めにつながりません。

神は「求める」人に恵みを下さるのです。

 各所で証しし書き物にもした自分の経験ですが、私は救いの恵みに与って1年ちょっとたった・・大学生3年生でし た・・夏休みに、インマヌエル綜合伝団で山形に新しい教会を建てる開拓伝道をしました。私はその最初の伝道会にお 手伝いに行きました。そこに日本ホーリネス教団のご婦人の先生もお手伝いに来て下さっていましたが、その先生と福 音経験の話になりました。そしてその先生から私は「聖霊経験をなさったのですね?」と質問されましたが、「はい」と言 えませんでした。「私はまだ聖霊を受けていない」それが自分自身の納得として明らかでした。以来私は絶えずこのみ ことばと向き合うことになりました。4年後に「はい」といえる恵みをいただきました。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ 6:8)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられ るのです。」(ガラテヤ 2:20)

 このみことばに聖霊を受けるヒントが示されています。

 「聖霊を受ける」ことと「キリストが私のうちに生きておられる」ことは同じです。

聖霊はキリストの霊であられて、聖霊を受けることがキリストを受けることです。

ですから、前半の「キリストともに死ぬ」「キリストともに十字架につけられる」ことがその前提です。これは神のみこころ を完全に受け入れること、みこころに従順であることに他なりません。

イスラエルは「うなじのこわい民」(出エジプト記 32:9)と言われましたが、それは従順の反対、不従順を表しています。

 うなじのこわい人、つまり不従順な人が、聖霊を受けることができるでしょうか?

 死ぬこと、十字架につけられることは、地上の一切の権利を失うことを意味します。それはもはや自分のものでなく、 神のものとなるのです。

 繰り返しになりますが、「キリストとともに十字架につけられる」ことを受け入れないひとが、「聖霊を受ける」ことができ るでしょうか。

 「十字架につけられる」「キリストともに死ぬ」というと大変なことのように響きますが、一人一人の経験としては、ほん のちょっとしたこと、他の人にとっては何でもないことを受け入れたり、手放したりするだけである事が珍しくありませ ん。そのほんのちょっとしたことを承知できないところに「うなじのこわさ」があります。それが信仰の障害であることを、 本人が気づかないことが多いでしょう。真摯な信仰の歩みを続けるひとには、神がそれを示し、恵みに入れて下さるの です。

 聖霊を受けると、何かすごい人になるように思ってはなりません。一足飛びに力ある業ができたり、素晴らしい品性が 身についたり、優れた技量を持つ人になったりするのではありません。それらは訓練を経て身につきます。聖霊のたま ものについ書かれているとおり、何かたまものをいただけることもあるかも知れませんが、それはすべてのひとに均一 ではありません。多くの場合、前と変わらない自分を見いだすでしょう。

 では聖霊を受けて何が変わるのでしょうか。「キリストの平安」と「自由、解放された心」を持ち、行いに対して「愛」「神 への従順」を動機とする人になります。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ 14:27)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(コリント U  3:17)

「御霊の実(聖霊に導かれてなす行い)は、・愛・・です。」(ガラテヤ 5:22)

愛はどこに現れるでしょうか。それは「動機の完全」と表現できます。動機の完全というとなにかすごいことのように感じ るかも知れませんが、平たく言えば何かするとき悪意をもってしない、利益を求めるとき不正の手段を持ってそれを追 求しないことです。相手に「よかれと思って」ことを行います。「よかれと思って善意でなす行為はたとえ失敗しても、相手 によい結果を与えなくても」動機の完全からはずれるものではありません。 結果を期待するのには知恵、知識、技量 等々を必要とします。

 聖霊を受けること自体は、キリストの十字架の贖いによって無償で与えられるものであって、受けた人の栄光ではなく イエス・キリストの栄光です。しかし、それに続く実際の生活の中で、よきサマリヤ人として生きるとき、私たち自身の栄 光となります。

皆さんにお尋ねしたい。

「信じたとき聖霊を受けましたか?」


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