ショートコラム ねだ
  
  
  
  
  
  
  
  
                − 名前を読む −
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
   聖書を学ぶ会の報告に、神がアブラムをアブラハムと名前を変えられた理由について質問があったというので、当時
  の人々の名前の意味に興味が沸いた。
  
  
  
  
   探してみると
  
  
  
  アブラム:高い父
  
  
  アブラハム:多くの人の父
  
  
  サラ:王女
  
  
  イサク:笑う者
  
  
  ハガル:脱走者
  
  
  イシュマエル:神はきかれる
  
  
  エサウ−エドム:赤い
  
  
  ヤコブ:押しのける者
  
  
  イスラエル:神が彼と争われる
  
  
  ユダ:讃美
  
  
  ヨセフ:加える
  
  
  ベニヤミン:右の手の子=幸福の子
  
  
  マナセ:忘れる
  
  
  エフライム:多く生まれる
  
  
  等々。 これらの名前には数多くの考察に値することが含まれる。 
  
  
  
  
   ヨセフが最初に生まれた子に「忘れる」と名付けた理由が聖書に書かれている。彼は「これまで味わってきた労苦を、
  神が忘れさせてくださる。」と。この世のできごととして、多くの人々が自分の通過した労苦にこころを傷つけられて癒え
  ることができないことはよく見聞きすることである。ヨセフの発想は「信仰的」というのに相応しい。彼は労苦でこころ傷
  ついたなどと言い続けないでそれを忘れた。彼は人生の海の嵐にもまれたが、安らう港を見いだした。私たちも、辛か
  ったことを恵みによって忘れることにしよう。
  
  
  
  
   ヨセフが父ヤコブの死がちかづいたので、自分の二人の息子を父に祝福してもらおうと思ってつれて行ったとき、ヤコ
  ブが手を交差して祝福したがなぜですか?と質問があったようであるが、聖書にその答えがストレートに書かれてい
  る。
  
  
  腕の交差に意味があるのではなく、ヨセフは長子のマナセをヤコブの右の手の前に、次男のエフライムを左の手にむ
  かわせたが、ヤコブはエフライムに右の手を置き、マナセに左の手を置いて祝福しようとした。それで手が交差した。ヨ
  セフが間違っていると思って、父の手を動かそうと思ったら、ヤコブは「どっちが長子なのかは分かっている。」とヨセフ
  に言った。そしてヤコブの意図は弟のエフライムを先に立てることにあった、と。
  
  
  (これは先生の回答・・ヤコブ=神ご自身の意図・・がエフライムを先にした意味合い・・の前置きと思ってください。)
  
  
  
  
   今回特に注目したいのはイサクの名である。
  
  
  彼の名は前出の通り「笑う者」であった。
  
  
  名前がつけられる前にこのようなことが書かれている。
  
  
  「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。・・・あなたの名
  は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするから
  である。
  
  
  ・・・・
  
  
  また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサ
  ラとなるからだ。・・・。」・・・
  
  
  アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳
  の女が子を産むことができようか。」
  
  
  (創世記17:1-21)
  
  
  「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。・・・彼が目を
  上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。・・・
  
  
   彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。するとひとり
  が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子がで
  きている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており・・そ
  れでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
  そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているの
  に』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来
  る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったので
  ある。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」(創世記 18:1-15)
  
  
  「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、
  私に向かって笑うでしょう。」」
  
  
  (創世記 21:1-7)
  
  
  
  
    ・・アブラハムもサラも子どもが生まれると言われて「笑った」。もうそんなことはあり得ないと思って笑ったのであっ
  た。それで、イサク(笑う者)の名を呼ぶたびに、神が宣言されたことを信じることができないで、笑ってしまった自分を
  思い出し、神は「全能の神」であることを思い知らされたに違いない。それが「信仰の父」であるための訓練となったも
  のと思われる。彼はイサクを献げなさいと言われた時には、迷った様子は片鱗も記されてはいない。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  