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   質問してみよう「聖書を学ぶ会」−報告−76


                      
                              山本 咲

「そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべて のもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。
 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻とし ました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたが たはその証人です。」
 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラ エルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名 をあげなさい。
また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のよう になりますように。」
 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(ルツ記 4:9-13)




ルツ記4章  買い戻し
 牧師:ルツ記の登場人物は、信仰的に、人間的に、神と人との前に自立している。本当の意味での自立は隣人を第 一とし、そこに意思し、選択していけるかということである。個人の選択は自由であるが、その自由をきちんと行使でき るかが問題であり、その選択の中で神が置いた隣人、愛するものを第一にできるかが求められているのである。それ を行うことができたものに神からの祝福がある。私たちはそのようになりたいと望むが簡単にできるものではない。で は、どのように行っていくべきなのか、それには信仰の日々を豊かに過ごし、日々の積み重ねが大切である。神が与え る訓練に身を置きつつ、従順に歩みを続けていくことができるか。この自立はすべての人ができることではなく、神の御 扱いの中に身を置き続けたもののみができるものである。私たちはそのことを信じ、求めつつ、歩ませていただきたく 願う。

Q:ルツ記4章12節「あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」に書かれているペレツの 家とは
A:ユダ部族の中で残り繁栄した部族。長男の嫁だったタマルにその買い戻しが行われなかったため、タマルは自分か ら行動し、義父のユダから子どもを得た。それがペレツである。
聖書は普通でない中に人の信仰のすがたを取り上げる。問題が起こった時にどのように対応していくかがすべてであ る。信仰によってことを行っていけるか、いけないかである。ボアズもルツもタマルもことを行うことができた。これは彼 らの信仰によってである。

Q:2節「町の長老10人」長老は何人いたのですか
A:特定の数字は言えないが、今回の10人という数字は一部でなく、村の総意と扱われるであろう数だったと考えられ る。

Q:創世記17章 説教のアブラムがアブラハムとなった意味は
A:神が名前を与えたのは、信仰の父とアブラムがなっていくようにとお考えになったから。二人は神によって新しい名前 を与えられ、それと同時に新しい信仰へと入っていった。

Q:説教の中で語られる「真の主体性」について。「極めて積極的な主体性を行使できるか」とはどういうことですか
A:主体とは「私がこうする、こうすべきだ」という意志である。私たちは片一方で「従う」ということを大切にしているがそう 考えていくと「それでは主体性を持っていてはいけないのでは」と思ってしまう。しかし実際は「神の御旨に従う」という積 極的な思いを持っていなければならない。そうしていくと私たちは神の御心の中に憩うことができ、その世界観や感覚 を持つことができる。この素晴らしさは言い表せない。これは経験して初めてわかる。
主体性を得たいと思うならまずあなたは自分の芯をもって他者の考えに揺り動かされず、行動していくことが大切だ。


Q:青年科で創世記を学んでいますが、エフライムとマナセにヤコブが手を交差して祝福を与えた理由を牧師はどう考え ていますか
A:エフライムとマナセはヤコブにとって一番大切にしていたヨセフの子である。その二人を見たときにヤコブが「こうした い、こうだ」と意思したのではないか。
事実、最終的にエフライムは北王国イスラエルとして立っている。私はそこからヤコブの意思と神の御旨は同じだった と捉えている。エフライムには神の主権の下、任命、召しがあったのである。神が主権となり、ことを行うためには本来 与えられているだろうと人間が考える自分の権利を放棄することも大切なのである。そしてそれは神の豊かな憐れみ のもと確かに取り扱われていくのである。

Q:先月の説教で「信仰を改ざんしてはいけない」と語られましたがどういうことですか
A:本来とはちがう収支報告をすることを改ざんという。自らの信仰に改ざんをしても他者にはわからない。それをいい ことに信仰を改ざんしていると身の丈に合った、自らの現状に合わせた処方や問題への介入、処置が行われない。悔 い改めは改善を神が豊かな憐れみをもって起こすが、それを行わず改ざんをしていくと結局改善されて行かない。私は よっぽどの場合でなければそれを責めることはできない。だからこそ、改ざんされていない本来の姿で信仰を表し、場 合によっては悔い改めと赦しのもと改善されていくことが大切なのである。

Q:創世記16章6節に「サライが彼女(ハガル)をいじめた」と書かれていますがその悔い改めをサライは行ったのでしょう
A:ここで書かれている一連のサライとハガルの問題はサライの主体でことが進んでいった。これがうまくいけばよかっ たが、実際にはうまくいかなかった。ここでサライは自らの失敗を受け入れて改めていかなければならなかった。しかし サライは悔い改めるのでなく、アブラムに訴え、その後ハガルをいじめた。このことについて聖書では悔い改めたなど 書かれてはいないが、日々の改善が行われていなければ淡々と日々の信仰を実行することは不可能である。イシュマ エルが生まれたとき86歳であったアブラムが99歳となるまでの13年間その信仰は続いている事実から、サライは悔い 改めを行ったと考える。

Q:ガラテヤ2章から割礼について
A:割礼が改宗に必要だとする考え方だったユダヤ教に対して、パウロは改宗が大切なのではなく、イエスキリストによ る救いが必要だと考えていた。だからこそ割礼によってその信仰がくじかれるくらいならば、割礼を受けるということを 大切にするのではなく、その信仰によって義と認められることが必要であると述べた。


Q:ダビデの前にサウロが王とされたのは、ダビデにとっての試練だったのですか
A:私はサウロにも神の選びがあったと考えている。サウロがダビデのように歩んだのであればきっとサウロ家が長く続 く王家となっていたと思う。しかし実際にはそうならなかった。神がいかにこの世界を守っておられるか人間の悪しきを 含め、それをもって人間が滅びないようにと働いておられるように感じる。神は良きに変えてくださるお方で、完全には 崩壊されない。しかしその崩壊を見ても悔い改めていかなければ、神はそのままにされ、さらなる崩壊が起こるのであ る。そして滅びへと向かっていくのである。だからこそ恐れをもっていかなければならない。やりたいことをやる理由は 探せばいくらでも見つかる。しかしそのまま行っていけば大切なものをその手から落としてしまうことになるのである。イ スラエルの王として、イエスキリストが生まれる道はサウロ家にもあった。それはヨナタンという人物を見ることでよくわ かる。しかし、サウロは王という責任に狂わされてしまった。そして神の国の王という責任を全うできなかった。だからダ ビデへとその王権は移っていったのである。
(仙台聖泉キリスト教会会員)




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